人気ブログランキング | 話題のタグを見る

愛知大学生の大量遭難事件

三八(サンパチ)豪雪での遭難
愛知大学生の大量遭難事件_e0057262_10592371.jpg

十三重之塔 慰霊碑
愛知大学生の大量遭難事件_e0057262_111446.jpg

説明板
1963(昭和38)年1月2日、愛知大学山岳部員13名のパーティは薬師岳をめざして、太郎平小屋を出発する。日本歯科大のパーティ6名も前後して出かける。

しかし、豪雪と吹雪のために薬師岳山頂まであとわずか300m(時間にして20分くらい)を残して、登頂を断念する。下山途中、現在、避難小屋が建っている地点で、正しいコースから90度ずれた東南尾根に入り込んでしまう。想像を絶する猛吹雪と寒気により、13名全員が遭難死した。

一方、日本歯科大パーティは先に薬師岳山頂に着き、愛知大が来るのを待ったが、来ないので下山する。一行も3度、進路を見失ったので、サブリーダー2名を組ませて、ルート偵察を行いながら、太郎平小屋に無事に到着する。

1月6日に愛知大パーティは下山の予定だったが、いっこうに帰ってこないので、1月14日に大学は愛知県警を通して富山県警に捜索願を出した。

1月22日、朝日新聞の記者とカメラマンが大型ジェットヘリで太郎平小屋に強行着陸し、小屋には人影が無いことを確認して、報道した。

1月25日、先行捜索隊9名が太郎平小屋に到着する。
しかし、豪雪のために捜索をいったん中止することとなる。

3月23日、捜索で5名の遺体を発見する。その後、次々と発見されるが、2名の遺体は発見できなかった。

10月14日、一人の学生の父親の執念の捜索により、残る2名の遺体が発見される。遭難から286日ぶりの発見だった。

《NHKのドキュメンタリー番組を視聴する》

※太郎平小屋の最後の夜、夕食を終えて7時のNHKニュースを皆で見ていると、ビシェールが「愛知大生の遭難の記録があるが、見ませんか」と話しかけてきた。1時間番組だというので、見ることにした。

遭難して遺体の見つからない父親の、それこそ執念の捜索の様子をドキュメンタリー風に記録したものだった。昭和38年だから、カラーでなく、白黒の画像だった。

テレビのカラー化は翌年の東京オリンピックからだ。

薬師岳の東南尾根に迷い込んだということで、雪庇(雪のひさし)を踏み外して黒部源流に落ちたのではないかと考えて、最後には父親は協力する山の案内人たちと薬師沢小屋に宿泊する。翌日、今は小屋の前には黒部源流をまたぐ立派な吊り橋がかかっているのだが、当時はなかったので、ロープで対岸から引っ張って渡す道具(猿何とか、名前を思い出せないのだが・・・)で一人、またひとりと渡っていく。

また、黒部源流の狭いところは長い棒を川に突き立てて、勢いをつけて渡っていくというように、川沿いにとても危険な捜索を続けていくのだ。

そして、案内人がガケの斜面で2名を発見するのだ。

愛知大生の遭難について、一行が宿泊した太郎平小屋でドキュメンタリー映画を見て、よく理解できた。

なお、愛知大のパーティ13名のうち、4年生はリーダーひとりだけで、残りは2年生と1年生ばかりだった。経験に乏しい部員が多かったということだ。

また、一行はだれもコンパスを携行していなかったことも分かっている。猛吹雪の中でも、コンパスを用いていれば、小屋にたどり着けたかもしれない。

また、日本歯科大のパーティが自分たちより先行して山頂に向かったことはわかっていたはずなので、吹雪を避けながら、日本歯科大パーティの下山を待つという選択肢があったのではないだろうか。

いずれにしても、サブリーダーとしての役目を果たす3年生がいなかったことは、致命的だったと考える。




by rockyj | 2016-07-21 10:12  

<< 東京都知事選 96座目の百名山 >>