潤の素晴らしきかな人生は
2019-07-22T11:52:05+09:00
rockyj
山旅や旅行、そのほかの見聞を文章と写真で紹介します。
Excite Blog
日本百名山に登る(Part.4)
http://jyun05.exblog.jp/28474643/
2019-07-21T09:46:00+09:00
2019-07-22T11:52:05+09:00
2019-07-21T09:46:55+09:00
rockyj
未分類
百名山登山は、岸和田のシュミネスポーツから始まり、やがて大阪にある登山ツアーも扱うサンケイ旅行が他社より安く提供していたので、こちらが多くなった。九州の阿蘇岳、九重岳、霧島山の縦走などは南港からフェリーで夜に出発し、翌朝からバスで登山に出掛けるというスタイルだ。往復とも自分たちで弁当とビールなどを購入して持ち込み、連れの方々とわいわいと話しながら食事を船中で楽しむのだ。何といっても登山後の夕食は、登りきったという喜びで、食事もビールもうまい‼
その後、毎日旅行も利用したが、この会社のツアーは、百名山に特化していて、ツアーの参加者はあと十回で踏破できるというような熟練の人々が参加していた。女性たちも文句も言わずに黙々ときつい登山をこなしていた印象がある。
その後、パステルツアーに多く参加させていただいた。大阪駅の桜橋口の改札前が集合地だ。この会社の特徴は、登山が終ると、日程に応じてスタンプをカードに貼付してくれ、このスタンプが50枚たまると、旅行券5000円として利用できるというもの。
いろんなツアーで泊まりの登山に出かけてきたが、山の組み合わせでどうしても残ってしまう山が出てくるのはしかたがない。
私の場合、北海道の十勝岳と羊蹄山、蔵王山と那須岳が外れてしまった。そこで、仕方なく自分で旅行プランを作って、個人で登山に出かけることにした。飛行機、高速バス、鉄道などを組み合わせ、時刻表で接続を確かめながら、行程表を作っていくのだが、この作業は、また楽しい作業である。
十勝岳と羊蹄山を巡る山旅は、2014年7月20日から24日に行い、25,26日は東京見物をして27日に大阪に帰ってきた。23日の夜からは寝台特急「北斗星」に初めて乗車し、夜行列車の旅を楽しんだ。
(蔵王岳から那須岳へ)2016年8月24日~26日
(蔵王のお釜はコバルトブルーで美しい)
7月24日、関西空港からPeach航空の07:20発に乗り、仙台空港へ。高速バスで山形へ。蔵王の登山口へ向かう。民宿の「山麓ヒュッテ」に余分な荷物を預けて、まずは蔵王ロープウェー山麓線に乗る。地図を片手に斜面を歩き、2,3日前の大雨であちこちが崩れている登山道を登って行く。
ほとんどすれ違う登山者がいないので、心細いが、地図があるので、それに従って登った。蔵王のお釜が見えるところに来たので、ここからは下っていき、さらにお釜に近づいて撮影した。一般の観光客は、苅田峠から蔵王エコーラインを上がってきて、画像の中央の奥の方から眺めることになると思う。手前にはこれから登っていく最高峰の熊野岳がある。蔵王山はひとつの山の名前でなく、北、中央、南の山群の全体を呼ぶ。
(朝日岳から奥にある茶臼岳を眺める)
那須岳も蔵王岳と同じく、一つの山の名前ではなく、茶臼岳、朝日岳、三本槍岳などの那須五岳をいう。
山麓駅から那須ロープウェーを利用すると、山頂駅からは40分程登っていくと、茶臼岳に着く。この山は現在も噴煙をあげている。茶臼岳ひとつだけでは物足りないし、時間もあるので、ごつごつとした岩峰の朝日岳に向けて、まずは尾根を下っていく。途中にある峰の茶屋で休憩してから、急な登りの道を登っていく。荒々しい岩壁がどこまでも続いていく感じだったが、ようやく山頂に着くと、そこにはすばらしい大展望が待っていた。
(朝日岳に向かう途中の峰の茶屋で休憩される皇太子ご一家)
右端に皇太子さま、中央で帽子を触っているのは雅子さま、その右には愛子さまがいる。愛子様は学習院の中学1年生。
皇太子さまが愛子様に何か指さしながら説明されているようだ。一行はお付きの方々を含めて20名ほど。休憩後、私が下山してきた朝日岳へと登っていかれた。
(槍ヶ岳)
天空に鋭くとがった穂先を突き立てているその姿は、北アルプスのどの山からも眺めることができる。登山者なら誰でも一度は登りたいと思わせる山だ。標高は3180mあり、登っていくにつれて、高度感が増していく。山頂直下には高さ20mほどの鉄のハシゴが昇りと下り、別々に設置してあり、これを登りきるとそこは山頂だ。山頂の端には祠が祀ってある。
私が登山したときには、残念ながら白一色の世界で、足元に赤い屋根の槍ヶ岳山荘がちらっと見えただけだった。できれば、もう一度登って、雄大な眺めを見てみたい。
(韓国岳 からくにだけ)霧島連山の最高峰
(大浪の池の向こうに韓国岳がそびえている)
霧島山は鹿児島県と宮崎県の県境にある火山群の総称だ。最高峰は画像にある韓国岳で、山頂から朝鮮が見えるという伝説に基づく名前で、もちろん、朝鮮半島は見えないことは当然だ。
韓国岳には最初は鹿児島に帰省した折、一人で出かけ、山頂に登った後、大浪の池に下っていき、再び登り返して池を眺めるポイントに立った。この時には大浪の池に向かう途中から小雨にあい、もっていたビニールの簡易かっぱをかぶったが、途中で破けたりする始末。
さすがに大浪の池は大きく、眺めていて感激した。しかし、帰りのバスの時間が気になり、ゆっくりとはできなく、下山を急いだ。バスにも間に合って、鹿児島市内へ運んでもらった。
二度目はツアー登山で、韓国岳から新燃岳、中岳をたどり、高千穂河原に至る登山ルートを歩いた。新燃岳の火口の縁に上がると、火口の壁からは白い噴気が上がっている。そして、エメラルドグリーンの火口湖が実に美しかった。
この新燃岳は、昨年も噴火して、周辺の町に火山灰を降らせている。
(男体山 なんたいさん)
男体山は二荒山神社のご神体なので、登る前に拝殿で神職のお祓いを受けて、お札を身につけてから山に登っていく。
途中から眼下に中禅寺湖を眺めることができる。
今回、男体山で百名山を達成する人は私のほかに女性が一人おられた。最高点は後ろの大きな刀が立ててある地点だ。登山ツアーの25名の方々も百名山踏破を祝って、記念撮影を一緒にしていただいた。前列中央で記念の言葉を書いた白い紙を持っているのが私で、右側に同じく百名山を達成した女性がいる。
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日本百名山に登る(Part.3)
http://jyun05.exblog.jp/28470916/
2019-07-19T10:21:00+09:00
2019-07-19T11:10:38+09:00
2019-07-19T10:21:10+09:00
rockyj
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(利尻岳)
利尻岳は、日本最北端の利尻島にある山だ。すぐ近くにある礼文島は高山植物が数多くあり、短い夏の期間には多くの観光客が美しく咲き乱れる花々を求めて訪れる。
深田久弥は「利尻岳は、まさしく利尻島そのものだった」と書いている。
(幌尻岳)ぽろしりだけ
北海道の背骨と呼ばれる日高山脈の最高峰で、アイヌ民族に古くから敬われてきた。3つの大きなカールを抱き、雄大そのものだ。
この山に登るためには、取水ダムの近くまでは林道をバスで行き、そこから登山靴から沢を歩くための沢靴に履き替えて、額平川を渡渉していく。何回も対岸に渡りながら膝丈ほどの川を歩いていく。
大雨が降るとたちまち、川の水かさが増えて、胸くらいまでになるから、登山は中止となる。2回目、3回目でようやく川を渡渉できた登山者もいる。私は幸い、1回目で渡渉することができた。登山の後、幌尻山荘に泊まる.ここでは自炊となり、ツアーのリーダーたちが湯を沸かして、即席の白飯を炊き、それにカレーをかけて夕食とした。
朝、起きると夜中に雨が降ったようで、川の水量が多く、出発を1時間、遅らせて、様子をみた。出発の時、短いロープを体に結びつけた。川で流されそうになった時に、リーダーたちがすぐにつかまえられるように。
前日より水量は多く、腰のあたりまであった。一度、流されそうになったが、ガイドの方がロープをぐっと握ってくれたので、踏みとどまることができた。熊のように体がごついガイド
さん、ありがとう‼
(鳥海山)
鳥海山は日本海の波打ち際からすっくと立ち上がっている富士型の美しい山だ。山形と秋田の県境にある山で、山形の人は出羽富士と呼び、秋田の人は秋田富士と呼ぶ郷土の名峰だ。
新山は噴火した溶岩の塊が累積していて荒々しいが、登りきると日本海を眺めることができ
る。
(劔岳)つるぎだけ
「岩と雪の殿堂」と呼ばれていて、岩は峻嶮で百名山の中で最も難関の山である。登りにカニのタテバイ、下りにはカニのヨコバイと呼ばれる鎖場があり、一歩、足を踏み外すと1000mもの岩壁を落下する。夏の登山シーズンには、登りのクサリ場では登山者が列をつくり、渋滞するほどだ。
映画「劔岳 点の記」
明治時代に日本地図の完成をめざして、測量官が山の案内人とともに、それまで登頂出来なかった劔岳に大変な苦難を乗り越えて登頂するという話である。新田次郎の原作。
「文藝春秋」2019年7月号に新田次郎の子どもである藤原 正彦さんが「読書と山とクラシック」という文章を載せている。一部分を引用する。
(10年前、『剱岳 点の記』の試写会で浩宮〈※皇太子のこと〉の隣に木村大作監督とはさんで座る。2時間19分の間、(浩宮は)微動だにされなかった。出演した俳優を交えた懇談会で殿下は「新田次郎さんの小説はほとんど読んでいます」と私に仰せられた。極端にすばらしいご趣味と拝察した。
ついでに山好きの女房に「日本百名山をいつか全部登りたいのですが」と仰せられた。)
皇太子さまは子どもの時に今の上皇さまに連れられて、よく登山に連れて行ってもらわれている。成人されてからは各地の山にたびたび登っておられたのをテレビで拝見した。
このたび、新しく天皇になられたことを報じた産経新聞の記事によると、殿下は百名山の山を40座登っておられるとあり、本当に山が好きなお方だなと驚いた次第だ。
天皇としての務めは、皇太子時代と異なり、幅広く、しかも重要なものが多いので、これまでのように気軽に登山を楽しむことは難しくなるだろう。それでも那須の御用邸に入られた折には、那須岳の登山くらいは楽しんでいただきたいと願うものである。
(この項、続く)
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日本百名山に登る(Part.2)
http://jyun05.exblog.jp/28468957/
2019-07-18T10:37:00+09:00
2019-07-19T09:09:43+09:00
2019-07-18T10:37:38+09:00
rockyj
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(赤富士)
【日本百名山とは】
石川県加賀市の出身で小説家、随筆家、そして登山家でもあった深田 久弥が昭和39(1965)年に出版した「日本百名山」という本がきっかけとなって、中高年世代に第二次の登山ブームが起こった。
深田 久弥が実際に登った全国の山の中から、標高1500m以上の山を百座、選んだ。(座は山の数え方)。例外として、茨城県の筑波山(877m)、鹿児島県の開聞岳(924m)がある。
深田 久弥は百座を選んだ基準を3つあげている。
(山の品格)誰が見ても、立派な山だと感嘆する山
(山の歴史)昔から人々との関わりが深く、崇拝されている山
(山の個性)山の形や個性など、ほかにはないような個性を持つ山
先ほどの例外となった二つの山も、たとえば筑波山は古来から信仰の山として崇拝されている。開聞岳は「薩摩富士」と地元では呼ばれていることでも分かるように、長い裾野を持つ美しい山だ。
【標高3000m以上の山々】
北岳、間ノ岳、悪沢岳、赤石岳、塩見岳、仙丈ヶ岳の5つは、南アルプスにある山。
【私の心に残る名峰】
【富士山】
かつては富士山の山小屋のトイレは、何ら処理もせずに垂れ流しの状態で、トイレットペーパーが白い帯のように山肌に残っていた。その後、環境保存の運動が起こり、世界遺産への登録の問題もあって、現在ではすべての山小屋がバイオ処理のトイレに生まれ変わっている。
登山者が利用するときには、使用料を払うことになっている。
また、7月と8月の登山シーズンには、山小屋の宿泊人数をきちんと守るように改善されている。
私は2回、富士山に登っている。1回目のツアーでは途中で山小屋に一泊し、山頂まで登ったのだが、風が強くて、最高地点の剣が峰とお鉢巡りは危険だということで中止となった。とても残念だった。
そこで、数年後にリベンジ登山に出かけた。この登山ツアーでは、往きと帰りにそれぞれ山小屋に泊まるというゆとりをもった登山だった。
天候にも恵まれ、山頂の剣が峰で記念撮影をし、その後、火口の周りを歩くお鉢巡りに出かけた。
2013年6月、「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」として、世界遺産に認定された。
現在、5合目より上に登るとき、つまり山頂をめざしていくときには、「富士山保全協力金」として、1000円を支払うことになっている。 ツアー登山の場合は、旅行代金にこれが含まれている。
【燧ヶ岳と至仏山】
(尾瀬ヶ原から眺める燧ヶ岳)
尾瀬への登山は、檜枝岐村(ひのえまたむら)からスタートした。
沼山峠から尾瀬沼に出て、そこからまず燧ヶ岳に登る。下山して尾瀬ヶ原の小屋に一泊した。2011年の東日本大震災の直後とあって、尾瀬へのツアーは少なく、山小屋はガラガラの状態だった。
翌日、上の画像にある木道を歩き、ガイドから高山植物の解説を聞きながら、至仏山に登っていった。
尾瀬ヶ原は5月末から6月は水芭蕉が咲き、7月は上の画像のようにニッコウキスゲが花盛りとなる。
(この項、続く)
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日本百名山に登る
http://jyun05.exblog.jp/28462855/
2019-07-15T10:03:00+09:00
2019-07-15T10:07:12+09:00
2019-07-15T10:03:05+09:00
rockyj
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この度、坂口会長様より記念すべき令和元年度の総会で、お話をさせていただく機会をいただきましたことをとても光栄に思っております。
私が山登りに目覚めましたのは、平成15(2003)年に羽曳野市立の小学校を退職してからです。再就職の予定が無かったので、4月1日から毎日が日曜日の生活になりました。
家人が日帰り登山のグループに入っていたので、一緒に連れて行ってもらうようになり、やがて岸和田のスポーツ店が主催する登山の会に加わることになります。
この会は日帰り登山だけでなく、関東の山旅にも社長自らが運転する10人乗りのワゴン車で連れて行ってくれます。その年の9月には、雨風の中、長野県の御嶽山(おんたけさん)に登り、初めて山小屋に泊まる山旅を体験しました。(山頂近くは雨風がとても強くて、横に取りつけてあるロープにつかまりながら、こわごわ登っていきました)
強風が小屋の雨戸に音を立てて吹き付けるのを聞きながら眠り込みました。ところが、翌日は快晴に恵まれ、お鉢巡りをして、素晴らしい景色を眺めながら、気持ちのいい登山ができました。この時に登山はいいものだということを理解したと思うのです。そして、この山が百名山登山の最初の山です。
その年の秋から、大阪市の「いきいき」で働かないかと声をかけて下さる方があり、3つの職場で6年半勤務しました。東北の鳥海山や八甲田山の登山では、大阪駅から夜行の寝台特急『日本海』に乗るわけですが、この時にはザックを担いで『いきいき』に出勤しました。特急『日本海』は2012年3月で廃止となり、ブルートレインで出かけた山旅も懐かしいものとなりました。
最初から百名山に登ろうとしたのではなく、泊まりの山旅を重ねているうちに気づいたら40、50と登ってきていて、それではせっかくだから全部登ってみようと思うようになりました。
岸和田のこの会主催のツアーでは、ニュージーランドにも出かけて、マウントクックの麓のトレッキングや現地ガイドによる2泊3日のルートバーン・トラック(ROUTEBORNTRACK)のトレッキングでは、いくつもの湖が点在するフィヨルドランドを歩き、とても思い出に残る旅です。
2016年秋に百座目の日光の男体山に登ることで、百名山の踏破は終わりを告げますが、かれこれ14年かかったことになります。
それでは、日本百名山とは何かから説明を始め、次に百名山の中から、私の心に残る山をいくつか紹介しながら話を進めていきます。
なお、画像は私が撮影したもののほか、インターネットから個人が無料で使用できる画像も取り入れています。
(次に続く)
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須磨離宮公園
http://jyun05.exblog.jp/28376951/
2019-06-08T15:37:00+09:00
2019-06-08T15:38:49+09:00
2019-06-08T15:37:45+09:00
rockyj
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神戸市須磨区の月見山と呼ばれる景観の地にあり、かつては皇室の別荘で「武庫離宮」と呼ばれていた。
1907(明治40)年、大谷光瑞の別邸を宮内省が買い上げて、1914(大正3)年に離宮として完成する。
1967(昭和42)年、今上天皇のご成婚を記念して造営された本格的西洋式庭園。
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東日本大震災から8年 Part.3
http://jyun05.exblog.jp/28186853/
2019-04-11T09:48:00+09:00
2019-04-11T16:05:47+09:00
2019-04-11T09:48:12+09:00
rockyj
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【三陸鉄道】
三陸鉄道は、JR東日本が経営をやめて廃線と決定したときに、地元の市町村が資金を出し合って、第三セクターの鉄道会社として運営を始めた。
1984年4月1日に久慈~宮古のあいだを北リアス線、釜石から盛(さかり)の間を南リアス線と名付けた。
釜石と宮古の間は、JR東日本の山田線であったが、大震災による被害でJRは経営をやめて、30億円をつけて2019年3月23日に三陸鉄道に移管したのである。
釜石と宮古の間が開通したことで、久慈から盛までが1本につながり、名前もリアス線となった。
私が三陸地方を旅したのは、一本になる1週間前のことだった。
釜石駅から三陸鉄道の南リアス線の列車に乗り込む
すぐに大きな鉄橋を次々とディーゼルカーは渡っていくので、運転席の横で動画撮影を始めた
(この画像は、前日の午後に釜石駅へと入っていく三陸鉄道を撮影したもの)
車窓からの三陸海岸の風景 白い防波堤が新しく造られている
【BRT大船渡線】大船渡市の盛駅~気仙沼駅
BRTという名前は、今回、初めて知ったのだが、「バス高速輸送システム」の略称だ。
JR東日本は、大震災の被害を受けた鉄道の復旧を諦めて、線路をアスファルト舗装して、バス専用道路として、ここのJRのバスを走らせている。
あくまでもJRの路線であるから、東京までの乗車券は、この駅から使用できる。
原則は踏切もついている専用道路をバスは走るのだが、一部の区間は一般道を走っていた。
〈陸前高田市の復興の状況〉
陸前高田市は高さ13mもの大津波に襲われて、住民に大きな被害が出ている。「奇跡の一本松」が立っているところだ。
そこで市は復興計画の基本方針として、住宅地をこれまでより12mの高さにかさ上げして、そこに住民が暮らすことを決めた。
まず高台の方に市役所と市立病院を新築し、その周辺にかさ上げ工事を行って、住宅地をこのほど造成した。かさ上げ工事は、市の奥の山間部を崩して、その土砂を高さ10mほどの長い長いローラーという名前だろうか、とにかく土砂を山から現場へと運ぶ。この工事の風景をTVで見たことがあるが、実に異様な光景だった。
8年がかりで一期工事が完成し、宅地の分譲が始まった。ところが、申し込んでいた住民は、自分でそこに住むことはせず、売り出しているという。実に6割もの宅地の利用が決まっていないということだった。
つまり、この震災からの8年間で、他市で避難生活を過ごしてきた人々は、そこでの生活に落ち着き、また、就職も他市で始めていた。
今さら、故郷に戻るには、陸前高田市の復興はあまりにも遅すぎたということだ。テレビでこれらのことを知っていたので、現地を見ておきたかった。
陸前高田で途中下車する。JRの普通乗車券だから、乗り降りは自由だ。
バス停がある一帯はだだっ広く、造成工事が終わり、電柱が立ち始めている
造成が終わったところのさらに一段と10mほども低い土地では、クレーンなどを使って盛んに造成工事が行われている。見渡す限り、土地がひろがっている。
奥の方に白く見えるのは、高さが12っもある堤防だ。その先に海があるはずだが、見えない。
バス停から歩いて5分程のところに、ここだけぽつんと商店が並んでいる。
見渡す限り、住宅は一軒もないのに商店だけがある風景だ。
クレーンとクレーンとの間に、「奇跡の一本松」が立っているが、工事中の場所なので、見学する
人の姿はなかった。
気仙沼駅からJR大船渡線のディーゼルカーに乗り、購入したかつ丼を食べながら、一ノ関へと向かった。
《終わりにひとこと》
桜田五輪相(オリンピック・パラリンピック担当)が昨夜、大臣を辞めた。「辞めさせられた」と言った方がいいだろう。
自民党の女性議員のパーティーの挨拶で、復興五輪に触れたのはよかったのだが、そのあとで「復興以上に大事なのはA議員なので、よろしくお願いします」とスピーチしたのだ。
桜田議員は千葉県の出身らしい。私が思うに、東日本大震災の被災地は、一度も訪ねていないのではないだろうか。
この人は以前にも被災地の人々の神経を逆なでする発言をした。
「放射能で汚染されたごみは、福島に捨てればいい」と。
国会議員ともあろう人の発言とは、信じられない。
五輪相になってからも五輪の予算額を1500円と言ってみたり、五輪憲章は読んだことがないとも言って、人々を唖然とさせている。
記者会見を聞いていても、一つ一つの言葉を大切にしようという態度が見られない人だ。自分の言葉で語ろうとしないひとだと思う。こういう人は、議員でなくて、ほかの仕事についた方が別の意味で気持ちよく、人生を過ごすことができたと思う。
議員がこれまで大臣としてその資質を疑わせる発言をしてきて、そのつど発言の訂正や撤回に追い込まれてきたのに、安倍首相が罷免しなかったのが不思議だったのだが、議員が二階派のメンバーだったことで、その謎が解けた。]]>
東日本大震災から8年
http://jyun05.exblog.jp/28184045/
2019-04-10T09:29:00+09:00
2019-04-10T11:05:32+09:00
2019-04-10T09:29:51+09:00
rockyj
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2019年3月17日(日)~18日(月)
旅館に置いてあった復興新聞を読んだ
コラム「足音」 【待望の釜石道開通】 (平松 伸一郎)
3月10日、釜石道が待望の開通をした。
釜石道の一部である新仙人峠道路が開通したのが12年前の平成19年。仙人トンネルを含むそれまでの仙人道路の開通は、昭和34年(1959年)。
わずか60年前まで自動車で仙人峠を越えることはできなかったのである。さらにさかのぼると、当時の国鉄釜石線全通した昭和25年まで、釜石・遠野間の難所、仙人峠を越えるには、徒歩またはカゴで越えるしかなかった。昭和25年といえば、そう遠くない過去である。
昭和17年、当時の東條内閣で商工大臣を務めていた岸信介が、釜石製鉄所視察のため釜石を訪れた際には、カゴで越えた。
昭和20(1945)年8月、戦火を避けて疎開のために遠野をめざした釜石高等女学校の生徒達は、徒歩で仙人峠を越えた。
東西を結ぶ釜石道が開通し、南北を結ぶ三陸道もほぼ開通している。遠野も盛岡も、宮古も大船渡も高田も、そしてそれぞれの先にある諸都市も近くなった。
さらなる人の往来と交流がこれから進むことと思う。
釜石港
復興作業に当たる人々が、朝礼で準備運動で体をほぐしていた
釜石を眺めることができる高台へと上がってみた。大震災当時、人々が大津波から逃げ上がったところだ。
釜石市の津波の概要
第一波 平成23年3月11日(金)14時台 マイナス119cm
最大波 11日15時21分 9,3m(港湾庁舎の痕跡等から推定した津波の高さ)
●人的被害 死亡者数:1,064人(行方不明者数152人、関連死認定者数106人含む)
●家屋被害 16,182戸のうち4,704戸が被災(29%)
全壊 2,957戸、大規模半壊 395戸、半壊 304戸、一部損壊 1,048戸
●漁船 1,734隻のうち1,692隻ガ被災(97,6%)
高台には、震災当時、港に打ち上げられた巨大な船の写真がパネルとして立てられていた。
市役所の下に立つ建物の壁には、到達した津波の高さを示すラインが表示されている
8時20分というという始業前であったけれど、震災関係の資料をもらうために、市役所を訪問する。
用件を伝えると、担当課の方が資料を届けて下さった。
『撓(たわ)まず屈せず』という題名は、「不撓不屈」という4字熟語から採ったものだろう。
復旧・復興の歩みというサブタイトルがついている冊子は、40ページにわたって、釜石市の復興の歩みを記載している。
(この項、さらに続く)
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8年後の三陸地方
http://jyun05.exblog.jp/28157062/
2019-04-03T10:08:00+09:00
2019-04-04T11:03:27+09:00
2019-04-03T10:08:14+09:00
rockyj
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2019.3.17~18
今年は東日本大震災から8年目を迎えた。
テレビでは㋂11日を中心にして、いろいろと特別番組が放送された。
その中でやはり、NHKの報道は群を抜いていた。
私がこれらの番組の中で、心を動かされたのが 「崖っぷちでもがんばっぺ」~おかみと社長の奮闘記~ というスペシャル番組だ。
これは岩手県釜石市の老舗旅館の女将と、漁業加工会社の社長の二人の震災後の取り組みを記録した番組だった。
ここに登場する老舗旅館の女将のことは、震災直後の報道で、取り上げられたことを記憶していた。女将の経営する旅館は、釜石市の北の鵜住居町(うのすまいちょう)にあり、根浜(ねばま)海岸のすぐ上に立地している。
旅館のすぐ近くに松林があり、その先の堤防の下に海が広がる
「宝来館」
大槌湾の根浜海岸にも津波は襲ってきた。その時の映像が残っているが、女将をはじめとして、人々が堤防を越えてきた津波に追われるようにして、旅館に向かって走ってくる。
この時、女将は津波に呑まれて、気を失ったのだが、辛うじて旅館の従業員に救い出されている。
旅館の従業員や宿泊客たちは、旅館の裏にある山に這いあがって助かったという。
津波は旅館の1階を破壊したが、2階以上は無事だったので、旅館は近隣住民の仮の避難所として、女将が先頭に立って活動していく。
その様子を震災直後に報道していたのだ。
ところで、今回のスペシャル番組では、被災地で復興を支えてきた老舗旅館が、存続の瀬戸際に立たされていることを伝えていた。
震災直後は、被災地を訪れるボランテイアや客も多く訪れ、宿泊客に自分の津波の体験を語る女将の話に耳を傾けた。
しかし、年が経つにつれて、宿泊する人も減っていく。そして、復興工事も終わりに近づき、作業員の宿泊が昨年末でゼロとなった。今では、旅館は赤字経営となっていた。
旅館の再建のために、国から2億円を借りて、建て替えと修理を行ってきた。その借金の返済が2019年3月から始まるのだが、返済ができないのだ。
女将は銀行に返済の猶予を依頼するという、厳しい状況に置かれている。
この番組を見ていて、自分にできることはないかと考えた。一人でも多く、この旅館に泊まり、手助けすることが必要だと思った。
幸いに、市川市の孫娘が3月15日(金)に小学校を卒業するので、私が祝いがてら出かける。そのあとに釜石に出かけることを決めて、旅館に連絡を入れたら、16日は団体が入っているのでダメだが、17日(日)なら大丈夫だというので、予約をした。
【3月17日】
7時56分発 東北新幹線「はやぶさ 103号」盛岡行き
下車した新花巻駅の待合室には、大谷選手らプロ野球の選手の展示ルームがある
JRの釜石線 新花巻駅は新幹線の駅の隣にポツンと立っている。
新幹線の駅ができたので、つくられたものかと思う。
ディーゼルカーは3両編成
指定席を購入していたが、すいている自由席に座った
釜石駅の構内には、歓迎の言葉が
釜石駅の壁面には、鉄の町らしくSLが走っていた
15:15 旅館の送迎の車で、旅館に向かう
5階の部屋に荷物を置いて、周辺の散策に出かけた
旅館の前に広がる根浜海岸
この堤防を津波は楽々と越えてきた
大槻湾
堤防を巡らして、津波に備えている
旅館の前の松並木に立つ津波の記念碑
ともかく上へ上へ逃げよ
てんでんこで逃げよ
自分を助けよ
女将の岩﨑 昭子さん(62歳)
津波に自分が襲われた体験談は、朝食が済んだ午前8時半からすることになっているそうだ。しかし、私は明朝は午前9時過ぎの三陸鉄道に乗らなくてはいけない。
女将にそのことを話すと、午後8時過ぎから話をさせていただきますとのこと。
女将は忙しいひとで、夜も他の場所で「語り部」の仕事をすることになっているとのこと。
部屋に電話が来たのは、午後8時50分頃だった。急いでロビーへ向かった。
女将さんにお疲れのところ、大変、申し訳ないですと挨拶する。
パソコンの画面を開きながら、旅館の周辺の状況を話し始め、今、堤防の水門の工事が進んでいることや珍しい岩石のことも話してくれた。30分程、あれこれと話を聞いた。
自身が流された津波の話は、夜なので話すと怖いからと、直接には触れなかったが、テレビで流された映像を見ているから、それ以上のことを尋ねようとは思わなかった。
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北前船主の館-右近家
http://jyun05.exblog.jp/27965949/
2019-01-28T14:33:00+09:00
2019-01-31T10:18:29+09:00
2019-01-28T14:33:31+09:00
rockyj
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2018.12.3
昨年の12月、恒例の「河南これから会」の親睦旅行に参加してきた。
参加者は18名と少なかったが、楽しい旅をすることができた。
《北前船主の館・右近家》
江戸時代から明治時代にかけて、日本海回りで北海道と大坂を結ぶ航路を利用した商船を北前船と呼ぶ。寄港地で商品を仕入れ、別の寄港地でこれを販売して、莫大な利益を得た。北海道の松前で、昆布、わかめ、海産物などを買い込み、日本海沿岸に沿っていき、瀬戸内航路で大坂に入っていく。
この北前船の船主集落が福井県南越前町旧河野村にある。今回は右近家という船主の館を見学した。右近家は、その後、海上保険会社を経営したという。
山側に船主や船頭の屋敷、海側に蔵が軒を連ねる船主集落を眺める
この集落は日本海に面しているが、大きな船の入る港はない。敦賀や大坂を母港としていた。3月になると歩いて大坂に行き、11月まで大坂と松前との航路を往復していた。幕末ごろにはひと航海で千両(1億円)もの儲けがあったという。
右近家の正面入口
右近家の屋敷が並ぶ
大きな梁が並ぶ立派な屋敷に入ると、北前船の「八幡丸」の模型がどんと置いてある
右近家の法被(はっぴ)
北前船に乗せた船タンスも立派なものだ
皇太子殿下も視察に訪れられている
屋敷の後ろのガケの上には、和洋折衷のこれもがっちりとした洋館が建っている
昭和の始めに建てられたもので、船員を泊まらせたという
2階には和室がある
1階から2階への階段のところにある窓のデザインも北前船だろう
海辺の近くに復元した北前船を展示してあるので、記念写真を撮影した
〈1月に図書館でたまたま手に取った「旅の手帖」(2018年1月号)が日本遺産の特集号だった。その中に私たちが訪れた福井県南越前町の河野家が取り上げられていた。そういえば、この旅についてはまだブログに取り入れていなかったことを思い出して、今回、記録した〉
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名画鑑賞会
http://jyun05.exblog.jp/27930098/
2019-01-20T10:51:00+09:00
2019-01-21T11:15:59+09:00
2019-01-20T10:51:06+09:00
rockyj
未分類
2019.1.18(金)
地元の老人会(双葉会)で「歩こう会」の部長をさせていただいている。
「歩こう会」とはいっても、高齢者ばかりなので、3年前からは軽いハイキングに参加したり、美術館に出かけて名画を鑑賞している。神戸のボストン美術館展、昨年は中之島の国立国際美術館でのロシアのプーシキン美術館展に出かけた。午前中に名画をじっくりと見て、その後、ランチ会という企画だ。
神戸では会場の神戸市立博物館から南京街まで15分程歩き、中華料理をいただいた。ランチなので、手ごろな値段で食べられるから、好評だった。中の島では新しく生まれ変わったフェスティバルホールの2階のレストラン街に入った。ここも中華で、ちょうど昼時とあってサラリーマンたちが行列を作っていたが、こちらは予約を入れていたので、スムーズに円卓のある個室に案内された。
ところで、今回はSAYAKAホールでの『名画鑑賞会』を午前中に見て、その後、双葉会の新年会に出かけるプランを企画した。
『五島のトラさん』
1993年、テレビ長崎のディレクター・大浦勝が、うどんの製麺業と天然塩の製造をする犬塚虎夫さん(通称トラさん)と、当時、五島で取材した別の家族の紹介で出会った。
大浦は同年、犬塚一家の日常を番組にする。
トラさんの生き方に共感した大浦は、その後も土日や正月などにデジタルカメラを担ぎ、22年間もの長きにわたって、夫婦と子ども7人の家族の成長を追い続ける。
2015年に完成した作品は、テレビ放送後、大きな反響を呼び、数々の賞を受賞し、FNSドキュメンタリー大賞では、グランプリを獲得している。
2016年の夏、映画版となって劇場公開された。
【トラさん流の子育てー自分の子どもは自分で鍛える】
トラさん一家は、長崎市の西方百キロに浮かぶ五島列島北部の新上五島町に暮らす。
妻の益代さんとの間に7人の子どもがいる。いまどき、7人の子どもがいる家庭は、実に珍しいが、自然に恵まれた島の生活ではのことだろうか。
子どもたちは毎朝5時になると起き出して、家業のうどん作りを1時間手伝ってから、朝食をとって、学校へ出かけていく。子どもたちには、うどん作りの作業で年齢に応じて分担する仕事がある。
面白いのは、タイムカードがあり、働いた時間を毎日、きちんと記録してあることだ。そして、お小遣いは、この働いた時間と年齢に応じた金額を掛けたものになっている。ちなみに3歳の末っ子も10円の時給をもらう。
「お金の価値や物を作る責任感、喜びを知る。学校では教わらないことを家の手伝いを通して学ぶ」とトラさんは語る。
「よそではこういうことはやっていないが、自分の子どもは、自分で鍛える」というのが、トラさん流の子育ての方針なのだ。
トラさんはうどん作りからスタートして、次には五島の海水から天然の塩を作ることに取り組んでいく。使われなくなった漁師小屋を借りて、作業場に作り替えた。海水を炊いて塩を作るためにかまどに火を入れたら、24時間つきっきりの作業になる。睡眠不足の生活が始まり、次第にトラさんは健康を害していく。
トラさんは焼酎が好きだ。食卓には「いいちこ」などのボトルがあった。遂に入院せざるをえなくなり、糖尿病となった。退院して、インシュリンの注射を打つシーンは、実に痛々しかった。
61歳という若さで、トラさんは亡くなる。葬儀の時に飾られた遺影で、トラさんは明るく笑っていた。
《成長していく7人の子どもたち》
子どもたちは、地元の上五島高校を卒業すると、うどん作りの仕事に従事する。長男は父の勧めもあって漁業の手伝いをしながら、家業を継いでいく。地元の人々が働く漁業のことも知っておいた方がいいという父の考えだ。
やがて、若いながらに漁船の船長として、自分ょり年上の船員たちをまとめていくようになる。
心に残ったのは、次女のさくらの生き方だ。彼女は、父親に反発しながら、それでもうどん作りの仕事を手伝う。しかし、高校を出ると、島を出て行くと主張する。父親は「許さん」とこれに強く反対するが、結局、彼女は自分の考えを貫いて、京都の写真の専門学校に入る。
京都では、禅寺に通っては、若い修行僧たちの一日の生活をカメラで追いかける。そして、遂に写真集の発行にこぎつける。
父は次女にその写真集を100冊買うと伝える。次女が島を出る時には、あれだけ反対して、「もう、帰ってこんでよか」とまで言った父だが、やはり、娘の仕事が一冊の写真集となって実ったことがよほど嬉しかったのだと思う。
「写真集は島の親戚に配るほか、うどんの通信販売の案内にも載せて、売るよ」と父は笑って話していた。
映画が始まったころは、母親に背負われていた男の末っ子は、高校では8種競技の選手として、長崎県大会に出場し、見事に優勝する。そして、教員になるという夢をかなえるために勉強して、熊本大学に入る。
卒業後、講師をしながら頑張り、3年後に高校の教員として採用された。この末っ子が父の1周忌の開始時間に、船に乗り遅れて間に合わなかった。(長崎からはフェリーで90分かかるという)。さんざん、集まったみんなから叱られる場面があった。
末っ子は泣きながら父親に「父さん、ありがとう」と語りかけるのだった。
映画のラストシーンでは、7人の子どもたちの現在の姿が写真で映し出される。末の男の子以外は、みな結婚して、次女のさくらのほかは子どもたちがいる。そういえば、さくらは寺のお坊さんと結婚していた。もしかすると、撮影に日参していたときに、修行僧か、その禅寺の若い僧侶といいご縁ができたのかもしれない。
22年間での子どもたちの成長ぶりがよくわかるシーンだった。ここで泣かない観客はいないだろう。
新年会に向かうバスの中で、「五島の塩を買ってみたい」と話す人がいた。それを聞いて、私も「うどんも買うのもいいかも」と思ったことだった。
ネットで調べたら、わかるはずだ。
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新年のご挨拶
http://jyun05.exblog.jp/27847596/
2019-01-09T09:39:00+09:00
2019-01-20T10:17:32+09:00
2019-01-09T09:39:36+09:00
rockyj
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2019年元旦
(立山方面から遠くに薬師岳を眺める)2018年7月
年末は25日に千葉の市川から次女が二人の子どもとともに帰省してきて、二人暮らしの我が家は、いっぺんににぎやかになりました。
長女は小学6年生、長男は小学4年生です。毎朝、朝食の済んだ9時ごろから冬休みの宿題に取り組ませました。二人とも漢字の宿題があり、おしゃべりをしながら、やっていました。
私はコーヒーを飲みながら、見守るということですが、最後には用意しておいた漢字ドリルで、実力テストをしました。4年生は、千葉ではまだ習っていないと文句を言う場面も何回かありましたが・・・。
元日は雑煮を食べた後、二人の孫にお年玉。6年生は福澤諭吉、4年生は樋口一葉。このお年玉はママが回収してしまって、手元に残らないと長女が訴えるので、特別に100円玉を進呈したら、大喜びでした。やっぱり、自分の財布に入れておくのがいいらしいですね。
先日のテレビでお年玉について、解説してくれました。それによると、江戸時代のお年玉は、小さい餅(もち)を紙で包んで渡していたそうです。正月の年神様は、家の中のお餅に宿るそうで、そこからお年玉の風習がはじまったのだとか。漢字で表すと、「御歳魂」と書くのだそうですよ。玉とは、たましいの意味です。
そうしていたら、堺市に住む長男から電話があり、十時半ごろ行くからとのこと。本当は3日に来ることになっていた。というのもそちらの上の子供が年末からインフルエンザになっていたので。それも治ったということです。
来年の4月に小学校に入学する長男は、500円玉を貯めていたのを知っていたので、(先日、見せてくれた)お年玉は500円玉を2枚、2月に3歳になる次男坊には500円玉を1枚、袋に入れて上げました。
この2人には、これからもお札でなく、500円玉を上げていきます。
元日には地域の神社に初詣でに出かけました。午後1時ごろから出かけたのですが、予想に反して、長い行列。紅白が終わると、どっと参詣の人々が繰り出して、道に長ーい行列ができることは前から知っていたのですが、午後でもこんなに参詣の人が多いとは正直、驚きです。
並んでいる途中、次女にメールが届き、京都の実家からこちらに向かっていた旦那様がもうじき、最寄り駅に着くとのこと。
参拝を済ませてから、車で迎えに行くからとメールし、慌ただしく神前に詣でた次女は、駅に迎えに。
お札を買って、二人の孫たちにはリンゴアメのプレゼント。私たちは神社の背後にある陶器山丘陵に歩いて上がり、遊歩道を歩いて帰宅しました。神社に歩いて出かけるニュータウンの住民の方々によく出会いました。
ところで、5月1日に皇太子が新天皇に就かれることから、平成の時代は、4月末で終わり、新しい元号の時代が始まる。天皇陛下が誕生日の記者会見で話されていたように、平成の30年間は、災害の多い時代であった。阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、西日本大水害など、数多くの命が奪われ、それまで平穏に過ごしてきた人々の生活が奪われてしまった。
迎える新しい時代が、穏やかで安らかに過ごせるように祈りたい。
今年は、喜寿を迎える。田舎の小学校の同窓生が関西に10名、関東に4名、下関に2名、福岡に1名いる。もちろん、鹿児島にもいる。
喜寿を祝って、1泊の同窓会を11月に福岡で行う予定で、私が企画する。福岡なら、鹿児島の同窓生も九州新幹線で何名かは参加してくれるだろう。関西の同窓性には、昨年4月に通り抜けの後、ランチ会をした。その時には旅行については、まだ思いついてもいなかったのだが、後日になって、旅行をしたいなと思いついた。
福岡の宗像大社が、世界遺産に指定されている。一度、ここを訪ねてみたいと思っていたのだ。同窓生と一緒に世界遺産を訪ねる旅もいいのではないだろうか。
先日、和室のあるホテルを検索していたら、宗像市にある「ロイヤルホテル宗像」という宿舎を見つけた。ホテルから大社まではタクシーで15分だとある。大体6か月前に申し込むようだ。同窓会は和室がいい。集まってワイワイとしゃべれるから。
今年は、喜寿を祝う小学校のクラス会を必ず行います!
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東京見物 No,2
http://jyun05.exblog.jp/27768890/
2018-12-30T20:03:00+09:00
2019-01-06T10:40:01+09:00
2018-12-30T20:03:01+09:00
rockyj
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2018.10.20(土)
《迎賓館とは》
かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった場所は、明治を迎え、皇室に献上され、仮皇居などが設けられてきた。この土地の一角に、明治42(1909)年、東宮御所として誕生した日本で唯一のネオ・バロック様式の西洋宮殿が、現在の迎賓館赤坂離宮の本館である。
建設の総指揮を執ったのは片山東熊(とうくま)。建物の両翼を前方に張り出し、湾曲させた特徴的な設計。建物の屋根には阿吽(あうん)のよろい武者や天球儀を配した。
当時の欧米の最新技術や流行も取り入れつつ、和の意匠にもこだわって、明治期を代表する建物を造り上げた。
戦後は国に移管され、日本と国際社会の関係が活発になる中で、昭和49(1974)年に迎賓館としてよみがえった。
現在は、世界各国から賓客をお迎えする外交の舞台となっている。
創建から100年を迎えた平成21(2009)年には、本館、正門、噴水などが明治期以降の建物で初めて国宝に指定された。
「門しょう」
本館を遠くに望む正門。
デザインは,ベルサイユ宮殿をはじめとするフランス宮殿の門しょうにならったもの。
門しょうから迎賓館を眺める
この後、迎賓館の受付に入り、およそ20分程行列に並び、入場券を購入する。大人は1,500円也。中学生から有料となるから、同行の小6の孫娘は、無料だった。
この後、本館に入るが、撮影禁止につき、画像はありません。
その代わり、立派なリーフレットをいただいたので、これに基づき、解説を加えたい。
(室内の解説)
正面玄関からレリーフのアーチをくぐり、中央階段を進むと、壮麗な大天井が現れます。
海外からの賓客を最初に迎える玄関ホール。目にも鮮やかな深紅のじゅうたんが印象的です。じゅうたんは、正面玄関の扉を抜け、中央階段から2階の大ホールへと続きます。
大ホールでは、8本のコリント式大円柱が壮観です。イタリア産大理石のブレッシュ・ビオレットが使われており、紫班紋がアクセントになっています。
【彩鸞(さいらん)の間】
来客が最初に案内される控えの間として使われます。現在、朝日の間の改修工事中(2019年4月に公開予定)につき、天皇陛下や総理大臣による外国元首との懇談や首脳会談の場にも使われています。
【花鳥の間】
晩餐会が催されるのが【花鳥の間】です。この深い森のような落ち着いた室内には、さまざまな花と鳥がいます。壁には四季の草花の中で戯れる鳥を表現した七宝が30枚飾られています。
【羽衣の間】
オーケストラボックスを備え、壁には和洋の楽器のレリーフ。かつて舞踏室とよばれたのが【羽衣の間】です。
歓迎式典や晩餐会の招待客に食前酒を振る舞う場として使われるほか、演奏会が行われることもあります。
迎賓館赤坂離宮の中で、最も大きなシャンデリア3基を備えています。部屋の広さも最大で、その天井画は圧倒的。屋外にいるかのように広がる大空が頭上から迫ってきます。
フランスの画家が描いたもので、天女が地上に降り立った、ただならぬ気配を表現しています。天女の姿が描かれていないのは、舞踏会に集う淑女を重ね合わせる趣向とも言われています。
【主庭】
本館の南側には、主庭が広がり、その中央に位置するのが噴水です。創建当時からのもので、国宝に指定されています。
噴水の位置が本館より低く設計されているため、列柱が並ぶ軽やかな南面の背景と見事に調和。
都心にありながら、ビル一つない空の下、創建当時と変わらぬ景観が広がります。
彫刻の石組みの上に青銅製の水盤を置いた構造で、中段の水盤の上にいるのはシャチです。
屋上を飾る霊鳥
屋上には兜(かぶと)をかぶる鎧(よろい)武者の像がある
華麗な玄関ホールの入口の装飾。ここから来日した賓客はホールへと庵内される。通常は閉められている。立派なリーフレットの表紙にも、カラーで使われている。
迎賓館が建つ赤坂御用地には、皇太子殿下の住まいである東宮御所があるため、周辺の道路には、警察車両が駐車していて、警備する警官の姿も多く見られる。
【迎賓館 赤坂離宮】
東京都港区元赤坂2丁目1番1号
テレフォンサービス (03)5728-7788
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東京観光
http://jyun05.exblog.jp/27698348/
2018-12-05T11:04:00+09:00
2018-12-05T12:25:48+09:00
2018-12-05T11:04:47+09:00
rockyj
未分類
2018年10月19日
上京することが決まってから、東京の町歩きの候補を検討してみた。
その結果、①旧・古河邸、②六義園(りくぎえん)、③迎賓館の3か所と決める。旧・古河邸は、ネットで調べると、邸宅の内部のガイドツアーが予約できると分かり、往復はがきで申し込んだ。
《旧・古河邸と庭園》
(東京都北区西ヶ原1-27-39)
東京メトロ南北線「西ヶ原」下車 徒歩7分
19日(金曜日)午前10時30分からのガイドツアーだったが、何ぶんにも初めて訪れるところなので、5分程、遅刻してしまったが、何とか間に合った。早速、ツアーの料金を支払って、参加した。参加者は30名ほどか。
武蔵野台地の斜面と低地という地形を生かし、北側の小高い丘に洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配置している。
この土地は、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅であったが、宗光の次男が古河家の養子になった時、古川家の所有となった(当時の建物は現存していない)
現在の洋館と洋風庭園の設計者は、英国人建築家のジョサイア・コンドル。彼は、明治から大正にかけて、鹿鳴館(ろくめいかん)、ニコライ堂、旧・岩崎邸洋館などを手がけている。
1917年に古河財閥の古河虎之助の本邸として建てられた。当初は住まいとして、また賓客接待のばとしても使用され、虎之助夫妻が1926年に転居してからは、古河財閥の迎賓館として使用された。
戦後はGHQに接収され、返還後、1982年に文化財の指定を受けて、大谷美術館として、公開している。
(邸宅の内部は、撮影禁止)
英国貴族の邸宅にならった古典様式で、天然スレート葺きレンガ造り、外壁は赤味をおびた安山岩で仕上げられている。
邸宅の中から、洋風庭園を撮影する
日本庭園を見て回る。
作庭したのは、京都の庭師の小川治兵衛。洋風庭園にも勝るとも劣らない魅力的な名園を造り上げた。
《六義園》
(東京都文京区本駒込6-16-3)
東京メトロ南北線「駒込」下車 徒歩7分
染井門
メトロの南北線の西ヶ原にもどって、乗車して、駒込駅で降りる。王将で昼食を済ませて。六義園に向かう。駅の正面に広大な庭園が見える。染井門は特別の場合以外は閉めてあるから、幹線道路に沿ってぐるりと回っていく。
正門(ここから入場し、チケットを買う)65歳以上は、150円也。
川越藩主・柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した和歌の趣味を基調とする大名庭園。回遊式築山泉水。
池を巡る園路を歩きながら、移り変わる景色を楽しむ日本庭園。
明治時代に三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となる。その後、昭和13(1938)年に岩崎家より東京市に寄付され、10月16日より開園した。
昭和28(1953)年に国の特別名勝に指定される。
園内で一番高い場所にある藤代峠から大泉水を眺める
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退公連全国大会
http://jyun05.exblog.jp/27658611/
2018-11-09T10:47:00+09:00
2018-11-11T10:07:38+09:00
2018-11-09T10:47:44+09:00
rockyj
未分類
2018.10.18
退職公務員連盟の支部が大阪府下各市にあり、私は今、支部長を務めさせていただいている。任期は2年ごとであるが、今期を持って、次の方に支部長の職を譲るつもりである。ひとりが長く、その職にとどまることは、やはり弊害があるだろうと思っている。
全国大会には、府本部役員のほか、大阪市、豊能、堺・泉北など各ブロック代表が参加する。南河内ブロックの代表として参加するのは、平成26年度に続き、2回目である。
18日の早朝、午前7時20分に新大阪駅に集合することになっていたから、最寄りのバス停を5時53分に出るバスに乗車した。新大阪駅での短い時間の中で、今夜、宿泊する市川の次女宅への土産の「赤福」とホットコーヒーを購入することができた。大阪土産は何がいいかと前もって尋ねてみたら、「赤福』がいいとのことだった。鮮度が大事なので、関東では販売されていない。
会長は前日の会議のために既に上京しているので、11名の参加者が7:40発の新幹線の「のぞみ」に乗車する。ひとりの参加者が不参加となったため、私の座る二人掛けの窓側がキャンセルされていたので、様子を見ていたら京都から女性が乗り込んできた。彼女は、早速、足元のPCの電源に差し込み、携帯を見始める。
隣と話をする必要もなく、この旅のために持ち込んできた「散り椿」(葉室 麟)の文庫本を読みながら、2時間30分を過ごす。読書をしながら旅をするのもいい。
東京駅に着き、丸の内口に出てくると、皇居の方面から儀装馬車がやってくるのが見えた。カメラをバッグに入れたままだったので、撮影できなかったのだが、とても珍しい光景だった。
東京駅の正面の車止めのところから、信任状を皇居に届けるどこかの国の大使を乗せていくのだ。
ゆっくりと眺めていたいところだったが、あとの予定があるので、タクシーに分乗して、参議院議員会館へと向かう。
【大阪府選出の国会議員への陳情活動】
大阪府退公連 坂口 豊会長の挨拶
各支部が集めた要望書を柳本議員に手渡す
途中から出席された太田房江議員にも
太田房江議員
2人の議員は、来年度は参議院議員の選挙の年ということで、多方面にわたる話をされた。
この後、参加者が自己紹介をさせていただく。私は、国会中継で参議院の予算委員会で太田議員の姿を拝見させていただいている。これからもご活躍くださいとエールを送った。
昼食は議員会館の大食堂でいただく。
この後、永田町駅から東京メトロ南北線に乗って、後楽園に向かった。
会場の文京区シビックホールにて
午後1時からの全国大会は既に始まっていて、津島会長の代理の副会長の挨拶を聞く
来賓を代表して大島理森衆議院議長が祝辞を述べる
国会議員を代表して細田議員の挨拶
基調提言をする社会貢献活動推進委員長(柳本勝三郎)
この後、決議を採択した
1 人生百年時代に当たり、公務員の65歳定年制を速やかに実現すること
1 超高齢社会・人口減少社会で、働く意欲を有する高齢者の積極的活用と、働き方に中立的な年金制度の確立を図ること
など8項目である。
【記念講演】労働寿命と年金
元 厚生労働大臣 坂口 力 先生
(主なところは、画面を撮影させていただいた)
津島雄二会長の挨拶
津島会長は、この日、千鳥ヶ淵墓苑で祭礼があり、会長が祭礼の主催者であるため、そちらに出席されていたということだった。
(みんなで歌おう)
押川浩士氏の独唱 「椰子の実」
(押川浩士氏は、洗足学園音楽大学講師・藤原歌劇団員)
全員で『故郷』を斉唱した
会場の入り口で記念撮影をした後、小石川後楽園の見学に出かける一行と別れて、市川へと向かう。
メトロ南北線で飯田橋に出て、ここで東西線に乗り換えると、目的の行徳駅まで30分程だった。
(この項、終わり)
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還暦を迎えた教え子たちは今
http://jyun05.exblog.jp/27623907/
2018-10-31T11:12:00+09:00
2018-10-31T11:54:01+09:00
2018-10-31T11:12:26+09:00
rockyj
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2018.10.27(土)
スイスホテル大阪南海 会場入口の壁画(一部分)
中学校の2期生達が還暦の同窓会をするという案内状が届いた。2回目の同窓会で10年ぶりだという。
ところが、この案内状、よくよく読むと,同窓生に宛てた案内状で、きちんと会費まで書かれている。本来は教職員へは、招待状の形式で出すのではないか。
そこで、書かれていた幹事に「同窓生の案内状を間違って送ってきたのではないか」と尋ねてみると、「急いでいたので,申し訳ありません」ということである。
同窓会に呼ばれたときには、祝いの金を包んでいくから、他の担任の方にも相談してみた。
会の4日程前に、幹事から「代表して、あいさつをお願いします」とのことだったので、引き受ける。
5クラスの学年だったのだが、学級担任は3名のみの出席だった。すでに亡くなった方もあるし、病気療養中という方もあったので、少し、寂しい思いだった。
33名の参加というが、関東に住んでいる人たちも10名近く来ていた。関東組は、還暦プレミアム会なるものを東京でしたのだといい、パソコンを使って、スクリーンに映していた。
中学校の卒業アルバムからも映していたが、ゆっくりと映してほしかったなあ。
以下、当日の様子を紹介するが、名前は出さないようにしました。
司会をする幹事
(職員を代表して)
(前略)
「ところで、『人生百年時代』と政府はスローガンを掲げていますが、少子高齢化の時代に私たちは立たされています。そこで、私のささやかな経験をお話しして、皆さんたちがこれからの第二の人生を過ごしていくうえでの参考にしていただきたいと思います。
みなさんが90歳まで生きるとしたら、これから30年という長い長い時間があるわけです。政府は65歳まで働けるように企業に呼び掛けているところですが、70歳までは働くことをめざしていただきたい。
私の場合は、定年後に6年半、大阪市の学童保育「いきいき」で働きました。働くことで、社会の役に立っているのだという気持ちを持つことは、大事なことです。
次に、長続きのする趣味を持ちましょう。定年後に私は、山登りに目覚めてしまいました。家人が気の合った仲間たちと日帰り登山をしていて、ある時、連れて行ってもらったのがきっかけでした。
その後、九州から北海道までの日本百名山の山々にも登るようになり、3年前に百名山の全てに登ることができました。14年かかりました。
第二の人生を過ごすためには、何よりも健康が大事です。すでに、じいじ、ばあばと呼ばれている人もいると思いますが、ご家族そろって、健康第一をモットーにして、過ごしましょう。
本日の還暦同窓会を企画し、実現された幹事の皆さまに、心より敬意を表します。」
バスケット部で活躍した教え子たちに囲まれて
中学校のときのは、みんな背がこんなに大きくはなかったように思ったけど・・・
3年A組
3年B組
3年C組
3年D組
3年E組
全員での記念写真
幹事の皆さん、ご苦労さま‼
帰る際に写真をお願いしたら、たくさんの方々が入ってくれました!ありがとう!!
2期生の皆さん、同窓会にお招きをいただき、本当に感謝します。
次回は5年後くらいに同窓会をしたら、どうでしょうか。 その時は招待状でお願いします! ]]>
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