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ラジオ深夜便

  『定年後』の著者、楠木 新さんの話 
 2017.11.8(水)

 『定年後』という本がベストセラーになっていて、21万部も売れているという。

 11月4日の午前4時からの「ラジオ深夜便」(関西発)に著者の楠木新さんが出演して、中村宏アナがインタビューした。

 「定年後、イキイキと」というテーマで、著者の肩書は、人事キャリアコンサルタントと紹介された。

 楠木さんの話は、なかなか面白かったが、ベッドに寝たままで聞いていたので、うろ覚えのところもあった。そこで、後日、楠木さんのblogや毎日新聞の連載記事をWEBで検索して、楠木さんとこの本について、知識を取り入れたので、紹介したい。

 著者は1954年の神戸生まれで、京大卒。大手生命保険会社に入り、人事・労務関係を中心に、経営企画や支社長を経験する。会社組織と働く人との関係をテーマに取材し、執筆している。

 『定年後』という本を出版したきっかけについて

 ・阪神淡路大震災では、娘の友人が亡くなった。この時、自分だけが安穏と会社で働いていていいのかと、疑問をもった。しかし、働き続けた。

 ・47歳のころ、営業本部の筆頭課長に異動することになった。脚光を浴びる、会社の中枢の仕事だが、異動して一カ月半ぐらいでダウンしてしまう。面白くもない仕事に時間を費やしていいのか、ということと、さらに上の職を目指したいということとの葛藤のためだった。一気にエネルギーがなくなり、「うつ状態」と診断される。

 ・2ヶ月くらいで復職し、平社員として働き始めるが、翌年4月、営業の課長職になると、再び体調を崩してしまった。休職したのは合わせて1年くらいだったが、2年半くらい、しんどい時期を過ごす。

 図書館や書店、スーパー銭湯などに通ったりした。会社を離れたときに、退職後、自分はどうすべきかを初めて意識したという。

 ・その時から、定年退職した方々を訪ねて、話を聞くようになっていく。会社の先輩だけでなく、雑誌に掲載された人も訪ねる。次第に口コミで情報が入ってくるようにもなり、これまでに150名
の人々から話を聞いてきた。

 ・その話を朝日新聞のコラムに掲載するようになった。また、在職中にいくつかの著作も出版している。

 『定年後』という本

 私はまだこの本を読んでいなくて、図書館に予約をいれているところだ。

 著者が取材した人々の中から、読者の参考になるケースを紹介していると思われる。

 著者は、定年後のギャップ(段差)を埋める作業をしなければならないという。会社を離れてしまうと、①仕事、②人間関係、③スケジュールの3つが無くなってしまう。

 自分の居場所や行き場を見つけていかなければならい。

 そのためには、50代頃から、定年後に向けての準備(助走)をすることが大事だと説く。定年後のお金や健康についてのガイダンス本はたくさんあるが、定年後の生き方についての本は少ないという。

 確かに、私自身も生きかたについての本を読んだ覚えがないのだ。

 著者は、社外に身を置く機会を持つことを勧めている。〇〇研究会などに加わり、学ぶことや、大学の聴講などもいい。自分で見つけていく。

 著者は、60歳から75歳までを「黄金の15年」と呼んで、この期間を輝かせるか、どうかが大事だと説く。1日の自由時間を11時間とするならば、15年間は8万時間になるという。

 8万時間をあなたはどのように過ごしていきますか?

 私の定年後の生活
 
 私の場合、3月末に60歳で定年を迎えたが、4月から再就職する道はなかった。一般の教員の場合には、再雇用の制度はあったが、管理職の場合は、当時はまだ無かった。現在は、管理職についても、再雇用の制度がある。

 したがって、「毎日が日曜日」という生活が、4月1日から始まったわけだ。しばらくの間は、平日の昼間に近所を歩くことが、とても恥ずかしかった。なぜならば、現職時代には年休をとって、平日にぶらぶら過ごすことは、ほとんどなかった。せいぜい春休みや夏休みの期間に自宅にいることはあったのだが。

 そこで、とにかくはずっと自宅で過ごすという生活から、外に出て行く生活を取り入れようと考えた。

 一つは、地元にある大学で開かれている公開講座を受講することにした。あとは家人が参加していた日帰り登山に一緒に参加させてもらうことだった。女性だけの5人ほどのグループで、始めは居心地が悪かったが、次第に慣れていった。とにかく登山では体をしっかり動かさなくては登っていけない。そして、この時期に、岸和田のスポーツ店の社長が主催している登山クラブに加入することになる。

 ここから、登山がその後の私の趣味となっていき、日本百名山の全山踏破を昨年の10月に達成することにつながっていく。

 6か月、気ままな生活を過ごしていたときに、先輩ヵら『働いてみないか』と声をかけられて、大阪市教育振興公社の仕事を紹介されたのである。

 結局、それから6年半にわたって、大阪市内の小学校で、放課後の児童たちのお世話をする嘱託指導員の仕事をすることになった。「いきいき」という名称の組織で、指導員が15名ほど登録していて、毎日の勤務の割り振りと出勤簿の管理などを担当する仕事だった。

 この8月で75歳を迎えたから、私の「黄金の15年」は峠を越えた。振り返ると、再就職で、外の世界とつながる生活を送ることができ、仕事をすることに生きがいを感じることができたと思う。

 また、登山が定年後の趣味となり、九州から北海道まで、いろいろな山に登ることができ、自然の美しさ、また厳しさも体験することができたことは、大きな喜びだ。



 

by rockyj | 2017-11-08 12:36  

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