京都へ

  『海北友松』展  
 2017. 4.22(土)
e0057262_115722.jpg

 京都国立博物館で開催されている「海北友松」展を観てきた。「海北 友松」は「かいほうゆうしょう」と読む。武家に生まれ、信長や秀吉が活躍した戦国の世、桃山時代を生きた画家だ。

 京都国立博物館は、1897(明治30)年に開館して、今年は開館120周年を迎えるという。
e0057262_952459.jpg

e0057262_9531554.jpg


 海北友松、今回の展覧会についての情報で、初めてその名前を知った。狩野永徳、長谷川等伯など同時代の画家の名前は教科書にも登場するほど、よく知られているが、海北友松とはどういう人物だったのだろうか。

 展覧会で入手したパンフから、この日本画家の一生を紹介してみる。

 (いつ、どこで生まれたか)
 
 天文2(1533)年、海北善右衛門綱親の三男(もしくは五男)として、近江に生まれる。
 綱親(つなちか)は近江の戦国大名・浅井(あざい)家に仕え、「家中第一の剛の者」とうたわれたが、その父や兄を信長との戦で次々と失うなか、京都の東福寺に有髪の子童として入る。武門の再興を夢見ながら、還俗して(仏門から一般人にもどり)狩野派の門をたたき、画の道に進んだと伝えられている。

 
 狩野元信、狩野永徳らに師事したとする説あり。

 【60代から絵師として頭角を現す)



 「誤落芸家」(誤りて芸家に落つ)

 「武士の家に生まれた私だが、誤って芸家(絵師)に身を落としてしまった。あわよくば時運に乗じて武門再興を図りたい」と、友松はかたっていたそうだ。

 武門再興はかなわなかったが、DNAに刻まれた武士の気概は、確実に彼の描く画に投影され、名だたる寺院や公家の邸宅に筆をふるう。

 明智光秀の重臣・斎藤利三(としみつ)〈春日局の父〉と友松は心を通わせる友であった。利三が本能寺の変の咎(とが)で、秀吉に処刑されたとき、友松は信如堂の東陽坊長盛とともに利三の遺骸を奪って、信如堂に手厚く葬ったといわれる。
 (晴れ舞台!建仁寺に描く)

 〇安国寺 恵瓊(えけい)が建仁寺の大方丈を造営し、友松がその障壁画を描く

 建仁寺は、別名「友松寺」とあだ名されるほどの友松画の宝庫で、数多くの障壁画や屏風絵、掛け軸が伝わっている。

 (主な作品)
 《建仁寺》
 5つの部屋に52面の障壁画(ふすまに描いた絵)現在は50面

 65歳から67歳のころに描いている。
 ◎ 雲龍図 

(8幅)慶長4(1599)年、67歳で描く
e0057262_11574339.jpg

 威風堂々とした龍、人面のような龍、不気味な龍、友松はさまざまな龍を描き、朝鮮にまで「龍の名手」としての名声をとどろかせた。

 この作品は建仁寺大方丈の「礼の間」を飾っていた超大作(現在は掛け軸装)、かつて大方丈に足を踏み入れた者はさぞ驚いたことだろう。

 横長の画面を生かした、きわめてダイナミックな構成

 龍の顔からは、いかにも神獣らしい凄みと不気味さが伝わってくる。 
 ◎花鳥図(8幅のうち3幅を展示)
 ◎竹林七賢図(「大方丈」16幅のうち8幅、4幅ずつ前期・後期で展示替え)
 ◎山水図(8幅のうち3幅)
 ◎琴棋書画図(10幅のうち6幅)

 《アメリカ ネルソン・アトキンズ美術館》

 ◎月下渓流図屏風(びょうぶ)

  友松の到達点ー最晩年の最高傑作、60年ぶりの里帰り

 友松の水墨画は、ほとばしる気迫を全面に押し出した画風から、次第に詩情豊かで静謐(せいひつ)な画風へと変化していく。

 そうした好例にあたるこの作品は、昭和33年にアメリカの美術館が所蔵して以来、戻ることがなかった幻の最高傑作である。初めての里帰り展示がここに実現した!

 23日の「日曜美術館」(NHK)では、この作品を取り上げている。
 番組に出演した京都国立博物館の山本学芸部長は、この作品について、次のように解説した。

 「(描かれた情景は)中国の風景とは、だれも思わない。日本的な風景だ。友松が最後にたどりついたところは、日本的水墨画を完成させた。

 すべてのものをそぎ取って、要るものだけをここに置いていった。どんどん、どんどん極限に迫っていった。本当に澄みきった気持ちが託されている。」

 「日曜美術館」は再放送がある。

 
 

[PR]

# by rockyj | 2017-04-24 11:59 | Comments(1)  

別府の温泉だよ Part.3

  別府の温泉は日本一‼ 

  別府は8つの温泉郷があり、湧き出す湯の量は日本一だという。
 
 草津温泉の湯畑もスケールが大きく、圧倒されるが、源泉はひとつだ。それに比べると、別府では至る所から温泉が湧き出ていて、フェリーが別府に近づくと、街のあちこちから白い湯煙が昇っているのを見ることができる。源泉は3千あるという。

 別府の温泉の不思議さを体験させようと、地獄巡りに小学生の姉弟を連れていく。
e0057262_9532034.jpg

 8:40 亀の井バスの北浜バスセンターから、観光バスに乗り込む。
e0057262_10244541.jpg

 〔海地獄〕

 池の青色は、温泉中の成分である硫酸鉄が溶けているため。

 泉質:含食塩酸性泉
 深度:泉脈までの深さは、200m
 温度:98℃

e0057262_9535479.jpg

e0057262_9541941.jpg

e0057262_9571121.jpg

e0057262_9573564.jpg

 早咲きの桜
 〔鬼石坊主地獄〕

 灰色の熱泥が沸騰する様子が、坊主頭に似ているところから名づけられている。明治時代に「新坊主地獄」として営業してきたが、途中で閉鎖した。2002(平成14)年12月16日にリニューアルオープンしている。

 泉質:ナトリウム、一塩化物泉
 温度:99℃

e0057262_9582155.jpg

e0057262_100795.jpg

e0057262_1004879.jpg

 〔かまど地獄〕 
 90℃の温泉が噴気とともに湧き出している。
 
 煙の実験は、たばこの煙の粒子を核として、周りに水蒸気がくっつき、煙が見えるようになる。

e0057262_1012377.jpg

e0057262_1043176.jpg

e0057262_1072998.jpg

e0057262_108576.jpg

e0057262_108455.jpg

e0057262_109174.jpg

e0057262_1010245.jpg

 〔白池地獄〕 
 和風庭園にある池は、青みをおびた白色。噴出したときには透明な湯が、温度と圧力の低下で青白く変化する。

 泉質:含ホウ酸食塩泉
 温度:105℃

e0057262_1012968.jpg

 〔鬼山地獄〕

 別名を「ワニ地獄」という。大正12年に温泉熱でのワニの飼育を日本で初めて行う。現在、70頭を飼育する。

 泉質:ナトリウム、一塩化物泉
 温度:99,1度
 
e0057262_10142756.jpg

e0057262_10161424.jpg

e0057262_10164339.jpg

 〔血ノ池地獄〕

 「赤い熱泥の池」

 地下の高温、高圧化で自然に化学反応を起こして生じた酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥が地層から噴出し、堆積するため、池一面が赤く染まる。

 面積:1,300㎡(840畳)
e0057262_1021619.jpg

e0057262_10175364.jpg

e0057262_10195442.jpg

e0057262_10203274.jpg

 〔竜巻地獄〕

 別府市の天然記念物にも指定される間欠泉
 豪快に熱湯と噴気が噴き上がる

 泉質:含食塩酸性泉
 温度:105℃

 ※地獄の説明は、別府市地獄巡り組合のHPより引用させていただいた

e0057262_1023335.jpg


e0057262_102495.jpg

e0057262_10434412.jpg

亀の井バスの創業者の顔も入れてある
e0057262_10441258.jpg

 2時間30分の見学を終えて、北浜バスセンターへ戻ってきた。

 娘がスマホで調べてくれた有名な店。店の中には順番待ちのお客が十数名いた。
 やがて、別棟の2階に案内され、広い座敷で豪華な天丼をいただく。
e0057262_10334785.jpg

 

[PR]

# by rockyj | 2017-04-21 10:34 | Comments(0)  

別府の温泉だよ Part. 2

   竹瓦温泉 
e0057262_11501740.jpg


 竹瓦温泉は明治12(1879)年に創設された。創業138年の歴史のある温泉で、13ある市営温泉の一つ。

 地元の漁師が海岸近くに湧き出していた温泉を楽しむために、簡素な小屋を建てた。はじめは竹屋根葺きの浴場で、その後、改築されたものが瓦葺きであったため、竹瓦温泉の名前がついたと伝えられている。

 現在の建物は、昭和13(1938)年に建てられた。正面は唐破風造(からはふつくり)の豪華な屋根をもつ。

2階は格子天井の90畳の大広間になっていて、温泉を楽しんだ客の休憩場所だったが、今は公民館として使われている。

 ホテルが別府タワーの近くで,竹瓦温泉まで歩いて10分程で行けるので、6時前に起き出して、タオルとカメラ、小銭をポケットに入れて一人で出かけた。

 温泉に着くと、入口で待つ人々が見える。6時30分から開く。

 
e0057262_12255352.jpg

 受付で料金の100円を払う
 別府市の市営温泉はすべて100円だ。地元の人は、60円ほどだという。
e0057262_1255763.jpg

 男湯の暖簾をくぐると脱衣場がある。カメラを持っていたので、貴重品ボックスに入れる。脱いだ服は、棚に入れておく
e0057262_12212169.jpg

 6:36 脱衣場から地下の浴場をすぐに撮影させていただく。 浴場は楕円形をしている。温泉には二人の地元の人が早くも入っているようだ。湯の煙で顔が見えないのがありがたい。
e0057262_1245345.jpg

 地下にある浴場へ降りていく階段
 湯を汲み出す洗面器といすだけが備えられていて、石鹸やシャンプーなどは置いてない。受付でそれらを販売している。地元の人は、自分の洗面器に一式を入れて持ち込んでいる。

 かけ湯をして、湯に入ると、少し熱めの温度だった。千葉からきたという客が孫娘とともに入ってきた。地元の人と、あれこれと話していた。

 外に出て、私は洗面器で湯を汲んで、自分のタオルで、体をごしごしと洗う。風呂の縁に腰掛けた人を、地元の人が「そこは座ったらあかん」と注意する。風呂の縁には、頭を置くからだという。なるほどね。

6:55 風呂から上がって、最後にもう一度、浴場を撮影する。入浴客が多くなっていた。
e0057262_12284177.jpg

 天井の高いロビーは、昭和初期のイメージを残していて、湯上がりにくつろぐスペースとなっている。
e0057262_12311383.jpg

 砂湯(1030円)もある
 浴衣を着て砂の上に横たわると、砂かけさんが温泉で暖められた砂をかけてくれる
e0057262_12343299.jpg

e0057262_1235624.jpg

 2004(平成16)年6月9日に登録有形文化財
 2009(平成21)年2月6日に近代化産業遺産に指定されている

 なお、NHKの人気番組「ドキュメント72」の2017年2月5日の放送でこの温泉を取り上げている。

 私はこの番組は予約録画をしていて、毎回、視聴している。72時間、つまり3日間、同じ場所にカメラと取材陣が張り付いて、そこに来た人々にインタビューをして、人生模様を描き出すユニークな番組だ。

 30分番組なので、あっという間に終わってしまうのだが、毎回、見ていて楽しむことができる。






[PR]

# by rockyj | 2017-04-09 12:00 | Comments(0)  

別府・湯布院への旅 Part.1

 さんふらわーで大分へ

 2017.3.24~27

  千葉の孫たちに「船旅」を体験させようと考えた。小4と小2の姉弟だが、船での旅行は初めてだから、きっと楽しいだろう。

 私は百名山の旅で、九州へはフェリーで何回も旅行してきた。九重山、阿蘇山、韓国岳などの山旅は、集合地の大阪南港を夜の8時前に出航し、翌朝に目的地に着く。いつも大部屋でなく、2000円追加して、一人用のtouristベッドで寝る。

 最初、夏休みに北海道への船旅を考えて、あれこれとネットで調べてみた。ところが、東京港からの航路がなく、商船三井の場合、茨城県大洗港を18:30に出航して、翌日の13:30に苫小牧港に着く。これでは小学生にとっても、大人にとっても長い船旅となり、退屈してしまうだろう。

 そこで、九州への船旅となったのである。

 早速、修了式を終えた3月24日に、孫たちは次女とともに南港に新大阪駅から直行することになった。

e0057262_9565587.jpg

 明石海峡大橋を船室から眺める
e0057262_9574466.jpg

e0057262_9581749.jpg


e0057262_10155294.jpg

 別府港が近づいてきたので、甲板に上がって、別府の街を眺める。湯煙が上がっているのが分かる。
e0057262_10183154.jpg

 乗船記念に撮影する
e0057262_1019563.jpg


 当初の予定では、今日は別府観光で、明日、湯布院観光ということにしていたが、天候もいいようなので、湯布院に出かけることになった。

 手荷物を宿泊するホテルに預けることにして、別府タワー前で下車する。ここから別府駅前まで10分程歩く。
e0057262_10285578.jpg

 8:36 別府駅
 計画では別府駅西口からバスで湯布院に向かう予定だったが、別府駅で次女がレンタカーで行くことを提案する。バスを利用するのと、あまり料金が変わらないからということだ。

 レンタカーは一日利用して4500円という格安料金だった。運転は次女に任せる。
e0057262_1033255.jpg

 9:05 駅前から出発 温泉の湯けむりがすごい
e0057262_10353129.jpg

 由布岳の麓をいく
 9:45 湯布院に到着し、開店前のスーパーの駐車場に入り、10時の開店を待つ

 このあと、湯布院の観光のポイントである金鱗湖まで、大勢の観光客とともに歩いていく
e0057262_10431719.jpg

 くまモンの商品を扱う店
e0057262_10435343.jpg

 美味しそうなおかきなどが並ぶ
e0057262_10453465.jpg

 ガイドブックにあるアイスクリームの店
e0057262_10504795.jpg

e0057262_1051762.jpg

e0057262_10513175.jpg

 ここが金鱗湖
e0057262_1052641.jpg

 ここだけは、静かな場所だった。後ろには由布岳がそびえる。
e0057262_1053650.jpg

e0057262_10532757.jpg

e0057262_10535659.jpg

e0057262_10542542.jpg

 帰りに店の前のベンチでいただいたスイーツ(プリンどら)
(店の名前を撮影するのを忘れました)
e0057262_10564032.jpg

e0057262_1115117.jpg

 日帰り温泉の健康ランドで汗を流す
e0057262_1135335.jpg

e0057262_1125895.jpg


 この後、別府へと向かう
[PR]

# by rockyj | 2017-04-07 09:59 | Comments(1)  

高血圧

  血圧の新常識とは? 
 2017.4.4(火) 快晴

 4月に入り、日中の気温も15度前後と上昇してきた。

 朝のウオーキングとラジオ体操を再開した。5:45に家を出て、天野街道を歩き、ラジオ体操の集いに参加して、おしゃべりをしながら帰途につくというパターンだ。因みに今朝は6,800歩だった。

 ところで、昨日に図書館で読んだ「週刊文春」に興味のある記事が出ていたので、ここに紹介する。

 私は高血圧の薬を服用し始めて、1年ほどになる。はじめのころは血圧を朝と夜に測定していたが、次第に面倒になって、今では測定はせず、薬を朝に1錠飲むだけだ。

 今回の文春の記事は、大いに参考になった。

  《新「医療の常識を疑え」全41項目》
  筆者はジャーナリストの鳥集 徹氏。

◎米国内科学会と米国家庭医学会が合同で、60歳以上の降圧目標を「150未満」とする新しいガイドラインを公表した。9本の信頼性の高い臨床研究を総合的に研究した結果に基づくもの。(2017年1月17日)

 すなわち、 「普通に健康な60歳以上の人の病院外来で測る血圧は、150未満であれば治療しなくていい」  

 ※因みに日本高血圧学会の定めるガイドライン
   「上(収縮期血圧)が140mmHg以上だと、高血圧と診断される」

 これに対して、日本人間ドック学会は、  血圧の基準範囲を「147まで」  と3年ほど前に公表し、論議となっている。

 神戸学院大・栄養学部教授の駒村 和雄医師は、次のように話す。

◎血圧は、高すぎも、下げ過ぎもよくない。
  高齢者はとくに、早朝の高血圧に注意する。 寝ている間も交感神経が緊張しやすくなるため、早朝に血圧が高くなる人がふえる。

 心筋梗塞や脳卒中は、午前中に起こることが多い。

 血圧は朝めし前と寝る前に測れ (駒村医師が自分の患者に常に話している言葉だ)

◎血圧の測定は、二の腕に巻いて測る。

◎夜間頻尿の人は、血圧が高い可能性がある。(血圧が高いと、腎臓でろ過される血液量が増えるため、尿がたまる)

 夜中に3回以上もトイレに起きる人は、循環器内科医の診察を受けた方がいい。

 降圧薬は、一生飲み続けなければいけない薬ではない

 冬は血管が収縮するので、血圧は高くなる。暖かくなると、血管が緩みやすくなり、血圧は下がる。降圧薬を一錠か半錠ほどしか服用していない人は、夏が近づくにつれて、薬が不要になることもある。週に2~3回は血圧を測定するようにする。 
 

[PR]

# by rockyj | 2017-04-04 09:36 | Comments(0)  

3月の歩こう会

   多治速比売神社に詣でる 
 2017.3.18(土)快晴

 「たじはやひめじんじゃ」と読むのだが、パソコンではすぐには漢字を打ち出すことが出来ない。
 退職公務員連盟支部の年度最後の「歩こう会」は、泉北ニュータウンの宮山台に鎮座する由緒のある神社に詣でる。

 今回は私の近所に住むKさんを誘っていったので、都合、4名だった。

 9:30 泉ヶ丘駅までバスを利用し、そこから歩き始めた。

 この神社を訪ねるのは私は初めてなので、歩くコースは他の方にお願いした。はじめに竹城台団地の住宅の中を通り、遊歩道を下っていくと、竹城台小学校の前に出てきた。ここで地図を確認してから、小学校の正門を通り過ぎて下っていくと交差点に出る。

 10:05 大きい通りを右手に歩いていくと、「荒山(こうぜん)公園」がある。とても広い公園だ。
e0057262_1545386.jpg

 入口から眺める
e0057262_15455092.jpg

 大きなヤシの木が植わっている
e0057262_1550148.jpg

 運動公園の横を行くと、右手に大きな新池がある
e0057262_15463872.jpg

 池のそばには5年前には無かったという大きな遊具があり、子どもたちが遊んでいる
e0057262_15481295.jpg

 風車もあるが、動いてはいなかった
e0057262_15583262.jpg

 紅梅
e0057262_15592291.jpg

 本殿の見学を予約しているので、梅林の見学は、後にして神社へと向かう
e0057262_1605213.jpg

 神社の鳥井が下に見える
e0057262_1613299.jpg

 神社の参道の石段が続く
 二百段はあるだろうか
e0057262_163560.jpg

e0057262_1634589.jpg

  《多治速比売神社 拝殿》
 
  和泉の国大鳥郡の延喜式内社二十四座のひとつで、西暦580年頃の創建と伝わる。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺だったが、神仏分離で神社のみとなった。

 本殿は室町時代の建造物で、天文年間(1539~1541)に再建されていることが棟札で確認されていて、国の重要文化財に指定されている。

 主祭神は多治速比売命(たじはやひめのみこと)で、女神として厄除け・安座・縁結びの神として崇敬が篤い。たじはやひめのみことは日本武尊(ヤマトタケルのみこと)の妻である。


拝殿に詣でる
 このあと、社務所で芳名帳に記帳し、本殿に案内していただく
 神社のHPを読んだとき、本殿の見学は事前の予約制とあったので、電話で申し込んでいた。
e0057262_162297.jpg

 本殿の構成図
e0057262_1692495.jpg

 神社の本殿(あらかじめ、許可をいただいて撮影した)

 三間社入母屋造(いりもやつくり)
e0057262_1621681.jpg

 正面に千鳥破風(ちどりはふ)があり、大きな向拝がある
 
e0057262_16104344.jpg

 向拝柱の上部中央のかえる股には龍・雲・浪
e0057262_16163777.jpg

e0057262_16165770.jpg

 向拝の「たばさみ」は透かし彫りで、向かって右は右面に芭蕉の葉にカマキリがとまっている。この図柄はとても珍しいものという
e0057262_16172154.jpg

 向かって左は、右面に海藻と貝類
e0057262_16181842.jpg

e0057262_16183951.jpg

e0057262_161857100.jpg

e0057262_16191794.jpg

 神官は30分近く、詳しい説明をされ、質問にも丁寧に答えて下さった。
 本殿は国の重要文化財なので、檜皮葺の葺き替えなど、修理に多くの費用がかかることを話された。雷の被害を防ぐために、避雷針も二つ、取り付けられている。ありがとうございました!
e0057262_1639323.jpg

 拝殿は鉄筋コンクリート造

 昭和38年に泉北ニュータウンの造成計画に伴って、拝殿、参集殿の大改修を行っている
e0057262_16444610.jpg

 狛犬は江戸時代の天保12年の作
e0057262_1645836.jpg

e0057262_16453095.jpg

 石燈篭も江戸時代の寶永年間の作
e0057262_16461027.jpg

 この後、梅林を見て回る

 神社所有地の大部分はニュータウンの住宅や公園用地として府に買収され、神社の周辺は堺市の公園として、「荒山(こうぜん)公園」と名付けられて、1400本の梅が植えられているという。
e0057262_16485298.jpg

e0057262_16492440.jpg

e0057262_16495290.jpg

e0057262_1650185.jpg

e0057262_16512395.jpg

e0057262_16515041.jpg

e0057262_16521254.jpg

e0057262_16524092.jpg


 《たじはやひめのみことの神話》
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がえぞ征伐で東征に赴いたとき、相模から上総(現在の千葉県)に船で渡ろうとしたら、海が荒れて前に船が進まなかった。

 この時、姫が荒れ狂う海を押し分けて入水すると、たちまち海が穏やかになり、日本武尊の一行は無事に上総に上陸することが出きた。

 のちに日本武尊の一行が碓日坂(うすひのさか)、今の碓氷峠まで帰り着いたときに、日本武尊が東南の方を望んで「吾嬬(あずま)はや」(吾が妻は、ああ)と三度嘆いたので、碓日嶺より東を「吾嬬(あずま)」というようになり、今では東と書いて「あずま」とも読む。

 姫が入水した場所を「走り水」といい、現在の東京湾の入口の浦賀水道で、観音崎燈台が立つ。




[PR]

# by rockyj | 2017-03-20 15:56 | Comments(1)  

遠田潤子の本の紹介

  『雪の鉄樹』
 2017.3.16
   この本は3年前に出版された本なので、新刊本ばかりを図書館にリクエスト・予約している自分としては、なぜこの本をリクエストしたのかがよくわからない。

 よく本を紹介してくれる知人に尋ねたが、「私も偶然に同じ本を読んだところで、これから紹介しようとしたところだった」と随分と驚いていた。

 恐らくは、文庫本として新たに出版されていることから、図書館で読んだ新聞の広告から見つけた本だろう。


  《ストーリー》 

  祖父と父が日々、女を連れ込む、近所では『たらしの家」と呼ばれている家で育った主人公の雅雪は、高卒後、祖父のもとで庭師の修行を始める。

 その傍ら、両親のいない少年・遼平の面倒も見てきた。それは、かつて自分の愛した少女が犯した罪をつぐなうことだった。13年間、雅雪はひたすら償いをしながら、少女の出所を待っていた。

 《小説の舞台は、よく知っている場所だった》   

 『ここ大美野は、昭和初期に開発が始まった高級住宅地だ。パリの都市計画を模した造りで、住宅地の中心には、噴水のあるロータリーがある。

 一方通行のロータリーからは、道が八本放射状に広がって、その道沿いにゆったりとした敷地の邸宅が並んでいた。」

 大美野(おおみの)は、南海・高野線の北野田駅から西に下ったところにある。雅雪が出所してくる舞子と住むつもりのアパート「ガーデンハイツ」は、狭山池のそばにある。昔、さやま遊園のあったあたりだ。

 「住宅地を抜け、西除川を越える。川自体は細く、水量も少ないが、先には狭山池があった。日本最古の灌漑用貯水池で、博物館も建っている.池のぐるりは遊歩道が整備され、桜の名所になっていた。」

 狭山池は奈良時代の僧、行基が改修したことで知られている。平成になってから大阪府がダム化の改修工事を行い、その際に出土した奈良から江戸時代までの貯水・排水設備を安藤忠雄氏が設計した府立狭山池博物館で展示している。

 鉄樹とは、蘇鉄(ソテツ)のこと。鉄を好む木だという。

 《読後の感想》




 小説の半分まで読んでも、いったい主人公は何のために少年の面倒を見ているのかが分からない。
 はじめ、少年を育てていた祖母からは、さげすまれ、仏壇の前で手を合わせることも許されなかった。いつかは遼平に真実を打ち明けようと決めているのだが、なかなか言い出せない。読者も雅雪は、いったいどんな悪事をしたのだろうかと疑心暗鬼の状態で、読み進んでいくことになる。

 短気な性格の人は、半分まで読んだところで、この小説を投げ出してしまうのではないだろうか。
 そして、遼平は悪友から主人公の秘密を聞かされてしまうという最悪の結果となる。

 雅雪が出所を待っている舞子は、車の運転中に脇道からベビーカーを押しながら出てきた若い夫婦を轢いてしまった。その夫婦こそ、遼平の両親だった。

 しかし、ほかの読者も指摘しているのだが、「業務上過失致死」で13年という刑期は、いくら何でも長過ぎる。当時は5年以下の刑期だったということだ。

 もう一つ,この小説の弱いところがある。それはラストのところで、和歌山刑務所(ここは女性のみ収容している)から満期で出所してくる舞子を雅雪がどうしても迎えに行けなくなる状況になり、遼平を代わりに迎えに行かせる場面である。

 小説をきちんと読んだ者なら、舞子が雅雪の面会を一度も許さず、手紙も受け取ろうとしなかったことを覚えているはずだ。なぜ、舞子は雅雪との接触を拒絶しているのか。そのことは、全く語られていないから、読者は舞子の気持ちを知ることができない。舞子の心の内を明らかにしていけば、この小説は深みが出てきただろう。

 仮に雅雪が刑務所前で出迎えても、舞子が話をすることはないのではないだろうか。雅雪が代わりに行かせたのは、自分がひき殺した夫婦の子供だと舞子が知った時、彼女はどういう態度をとるのだろうか。小説では遼平と舞子はファミレスで4時間、語り合ったとだけしか書かれていない。

 しかし、私は舞子を出迎えるのは、雅雪しかあり得ないと考える。13年間、出所を待ち続けた雅雪が舞子とどういう話をするかを読みたかった。舞子は雅雪にどう語りかけるのか、聞きたかった。そこから、ラストの部分が大きく読者の心に感動をもたらしたのではないかと思う。

 《遠田潤子》
 

 1966年、大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科卒。

 2009年、「月桃夜」で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞し、デビュー。

 今回の小説の舞台となった地域について、詳しく書いていることから、堺市南部に在住ではないかと推察する。



[PR]

# by rockyj | 2017-03-16 14:10 | Comments(1)  

三郎ヶ岳

シュミネの日帰り登山
 2017.3.9(金)
 

6時30分、シュミネの神川社長が運転するバンが自宅の近くの道路に到着する。この後、二か所で客を乗せていく。今日は客が9名で満員。男女比は半々。途中、腹痛を起こした女性のため、針インターでトイレ休憩。途中のコンビニで買ったホットコーヒーのせいかと話していた。登山の前には、ホットコーヒーはやめた方がいいです。そういう私も、朝食後には小さなカップでコーヒーを飲んできたのだけれど。
e0057262_1153866.jpg

 8:35 仏隆寺の駐車場に到着。有名な千本桜の巨木がそびえる。樹齢はおよそ900年という。ヤマザクラとエドヒガンの雑種で、モチヅキザクラという品種だそうだ。4月中旬から咲き始める。奈良県で最古の桜で、県指定の天然記念物。
e0057262_1058931.jpg

ミツマタの花は、まだ開いていなかった
e0057262_10592288.jpg

 9:20 小峠から、いよいよ登山道を登っていく

e0057262_1105972.jpg

 途中には、何かいわれのありそうな石が鎮座している
e0057262_112334.jpg

 この後、急な斜面の道を登りつめていく
 9:56 高城山(たかぎやま)に到着。
e0057262_1151655.jpg

 山頂の様子。手前の小高いところに東屋があり、そこで休憩する
 尾根の道を行くと、馬の背のところを通過していく。危ない岩場では社長が女性たちをフォローする。男性は各自で進む。
e0057262_119134.jpg

 三郎ヶ岳めざして、最後の急登へ。
e0057262_11104257.jpg

 10:54 三郎ヶ岳(879m)に着く
 粉雪が降る中で、カップラーメン(とんこつ味)にお湯を注いで、3分待つ。半数のメンバーがラーメン派だった。やはり、寒い時にはカップラーメンですよ。
 あと、食後のコーヒーと、よもぎのあんころ餅をいただく
e0057262_11153855.jpg

 社長に行きとは違うルートで下山することを提案し、その通りになった。

 11:20 山頂から南側に下るルートは、すぐに鎖を張ってある急な下りの道で、滑らないように気を付けて下っていく
e0057262_11185582.jpg

 「石仏」の標識があり、左手の高い崖のところに「摩崖仏」があったので、少し登っていって撮影に成功する

 杉の植林を下っていくと、斜面から大きな根っこごと倒れた木があちこちにある
e0057262_11235065.jpg

 12:05 伊勢本街道に出る
 古人はお伊勢参りに、この街道を通って行ったのだろう
e0057262_11261213.jpg

e0057262_11263818.jpg

 12:27 集落に出てきた
e0057262_11273885.jpg

 道標がある
e0057262_11282319.jpg

 登山口の小峠にやってきた。これで一周したことになる。
e0057262_11292143.jpg

 藁ぶきの家は、珍しい

 13:10 仏隆寺の駐車場に帰ってくると、ザックを置いて、石段を登って本堂の写真を撮りにいく

 今日の山行は、昼食を入れて、およそ4時間20分の行程だった。

 《仏隆寺》 
e0057262_114245100.jpg
 
 入口から本堂を撮影させていただく
真言宗室生寺派
  (奈良県宇陀(うだ)市榛原(はいばら)赤埴(あかばね)1684)

 平安時代の前期、嘉祥3(850)年、空海の高弟の堅恵(けんね)が創建したと伝わる古刹。

 空海が唐から持ち帰った茶を栽培したといわれ、大和茶の発祥の地。
e0057262_11302599.jpg

 仏隆寺への197段の石段
 9月中旬には階段の両側に、彼岸花が咲き乱れるという
e0057262_1143567.jpg





[PR]

# by rockyj | 2017-03-11 10:28 | Comments(1)  

この本が面白い

『黒書院の六兵衛』

2017.3.3

浅田次郎の時代小説で、上下二巻に分かれていて、(上)を読み終えた。ストーリーがなかなか面白くて、次はどうなるのだろうと、ついついページをめくっていくことになる。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が官軍に敗れ、将軍慶喜は家来たちを大坂城に残したまま、江戸に軍艦で逃げ帰ってしまった。作品の中で、作者の浅田次郎は次のように書く。

「上様は、そうした忠義なご家来衆を戦場にうっちゃられて、さっさと江戸に逃げ帰られた」 
官軍の西郷隆盛と幕府の勝安房守(海舟)との間で話し合いがもたれて、江戸城の無血開城が決定する。官軍の江戸城への入城にあたり、物見の先手(先遣隊)として、尾張徳川家上屋敷の加倉井隼人が官軍のにわか隊長を務めることとなる。

 上野のお山には、恭順せる前(さきの)将軍家(慶喜のこと)と、抗(あらが)わんとする彰義隊とがともにいる。

 江戸城内にも幕府の家来たちが残っていて、そこに乗り込んでいく隼人たち20名の主従は、命がけである。しかし、官軍の制服を着て入城すると、官軍の威光はすばらしいものがあった。

 城を守る勝安房守は、次のように隼人に語りかける。

「御城内にとどまっておる侍のあらましは、恭順を誓うておる」

 隼人「しばらく、あらましとは聞き捨てなりませぬ」
 
 勝「実はこの西の丸御殿の中に、どうしても料簡できぬ侍がひとりだけおる」

 この料簡できぬ一人の侍、六兵衛をめぐる話が次々と展開していくのである。

  〈六兵衛とは、何者か〉

 六兵衛は、御書院番士で、旗本以上の身分である。戦時には、上様の御馬廻りに近侍する騎士であり、平時においては、御身辺の警護をする。

 無血開城が決まると、御書院番士はかたや将軍警護のお役目につき、こなた脱走していざ戦わんと気勢を上げていた。そして、六兵衛だけは御書院番の宿直(とのい)部屋で、てこでも動かなくなったのだ。

 上様もお城から出られたのに、なにゆえ彼はお城にとどまっているのだろうか。隼人にとって、また読者にとってもこれが大きな謎なのだ。

 隼人は六兵衛の屋敷に出かけて、そこで働く中間の奴(やっこ)から、奇妙な出来事を聞いた。師走の二十九日から翌朝にかけて、六兵衛の一家(夫婦と子どもたち)が入れ替わっていたという。入れ替わった六兵衛は、新年にはお城に出かけ、勤番についていた。

 六兵衛なる旗本は、旗本の株を高い金を出して買い取る「金上げ侍」だったのではないか。

 隼人たちは、六兵衛を御城から追い出そうと、策略を巡らす。官軍は入城のときに、勅使をお連れするので、お城で殺生などの事件を起こすことはならぬと話し合いで取り決めていたから、力づくで始末することはできない。最後には、安房守は偽の上意書(上様の文書)までこしらえて、六兵衛の上司に読ませたのだが、六兵衛はその場から動こうとはしなかった。

 知恵を絞った「最後の一手」は敗れた。

 二日後の勅使入城に備えて、間違いが起きては困るから、隼人は六兵衛が差している脇差を預かることにしたところ、六兵衛は素直に脇差を差し出してきた。

 さて、下巻では話はどのように展開していくのだろうか。六兵衛はなぜ江戸城内にとどまっているのだろうか。




[PR]

# by rockyj | 2017-03-03 10:19 | Comments(0)  

富田林市寺内町

 寺内町(じないまち)を歩く 
 2017.2.19
e0057262_6443281.jpg

 富田林寺内町は、永禄(1558~69)初年頃、京都の興正寺の門跡 証秀上人が、富田の荒芝地を守護大名から銭百貫文で取得し、近くの4か村の庄屋株各2名、計8名に興正寺別院の建立と屋敷、町割りなどの建設を要請したのが始まりとされている。

 町内は南北6筋、東西7町の碁盤目状の道路で整然と区画され、下水路を完備し、周囲には竹藪のある土居を巡らし、外部からの出入りは4か所に限られていた。

 早くから自治的都市の特権を得て、町政の運営には年寄役となった8名があたった。

 東高野街道、富田林街道などが交わる交通の要所で、石川流域で収穫される米、綿、菜種などの農作物と良質の水に恵まれて、南河内一の商業地として、近世以降、発展してきた。

 酒造、米屋、布屋、油屋などの商家が軒を並べていた。現在も江戸時代からの商家、町家を含めて、江戸、明治、大正の三時代が混然となった町並みがある。

 寺内町そのものが日本の優れた文化遺産として、平成9年10月、国の重要伝統的建造物群保存地区に大阪府で唯一、指定された。

e0057262_6445917.jpg

 公園にある寺内町の案内板
 碁盤の目状に町が区画されていることがよくわかる。
 北は右手となっていて、北の文字のところは、近鉄・南大阪線の富田林駅。
 南には青色で石川が描かれている。
e0057262_655176.jpg

 寺内町の新しく設けられている道標
e0057262_6561236.jpg

 下水のマンホールのふたには、寺内町の町家がデザインされている
e0057262_6574086.jpg

 当時の下水路は、ふたがされているが、当時の橋の名前が書かれた石が残されている
e0057262_6594697.jpg

 奥谷家
e0057262_70509.jpg

e0057262_713675.jpg

(東)奧谷家
e0057262_722586.jpg

e0057262_733664.jpg

e0057262_74129.jpg

e0057262_745523.jpg

e0057262_752786.jpg

 壁を銅板にしていて、緑青が太陽に照らされていて美しい
e0057262_77863.jpg

 道は真っ直ぐには通さず、少しずらしている
e0057262_782813.jpg

e0057262_7917100.jpg

e0057262_794193.jpg

 駒つなぎの石
e0057262_7102367.jpg

 これも駒つなぎの鉄の輪
e0057262_7111869.jpg

 寺内町の東側は、大きな崖になっている
e0057262_7121930.jpg

 米蔵が並ぶ越井家
e0057262_7132956.jpg

 越井家の町家も豪壮な造りだ
e0057262_7144694.jpg

e0057262_71584.jpg

 酒造をしていた町家の壁に残る酒の名前「万里の春」
e0057262_716483.jpg

 寺内町は、石川の河岸段丘の上に造られた町。石川へ通じる山中田坂は、急な坂が続く。米や農産物を運び入れるときは、大変な作業だっただろう。
e0057262_7203755.jpg

 興正寺別院
 寺内町は、この寺を中心にして町割りが行われた
e0057262_725768.jpg

e0057262_7243099.jpg

 山門は伏見城から移築したと伝わる
e0057262_7224569.jpg

 本堂に上がって見学させていただくと、大きな襖絵が両側に並ぶ。狩野派の絵師が描いたもの。
e0057262_7235872.jpg

e0057262_7275616.jpg

 興正寺別院が面する城之門筋は、日本の道百選に選ばれている(顕彰碑)
e0057262_7303893.jpg

 葛原家
 三階倉の意匠がみごとで、白壁がまた美しい
e0057262_7325193.jpg

e0057262_7352893.jpg

 人々の信仰をあつめている薬師堂がある
e0057262_7331893.jpg

 
 薬師如来は恋文でできているという
e0057262_7363517.jpg

e0057262_737818.jpg

 石の道標には「町中くはへきせるひなわ火無用」と刻まれている。現代風にいえば、くわえたばこはだめだよということ。火事を出さないように、当時の人々は心がけています。
e0057262_7403587.jpg

e0057262_741661.jpg

旧杉山家住宅

 杉山家は寺内町が形成された当初からの旧家と伝えられ、江戸期から明治の半ばまで造り酒屋として、河内酒造業の肝煎り(きもいり)役を務め、最盛期には使用人70人を数えたといわれる。

 現存する建築は、1650年ころに建てられた土間が最も古く、1734年にほぼ現在の姿が完成した。

 南河内の往時の豊かさと文化を伝えるものとして、昭和58年に国の重要文化財の指定を受けている。
e0057262_7533295.jpg

e0057262_750774.jpg

 石上(いそのかみ)露子は、明治時代に明星派の歌人として活躍した。本名は杉山タカで、明治15年にここ杉山家で生まれた。

 





[PR]

# by rockyj | 2017-02-21 09:03 | Comments(4)