橿原市今井町

   寺内町 今井を歩く 
 2017.9.27(水)
 医療生協の日帰りツアーに参加してきた。
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 藤原京の跡地は広大な空間が広がる。朱色の円柱が立ち、ここに宮殿があったことを示す。
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 彼岸花がまだ咲いていた
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 奈良・明日香村の石舞台古墳
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昼食は2000円(?)の定食で、なかなか品数もあって、美味しかった。柿の葉寿司も1個だが、ついていた。

 その後、楽しみにしていた今井町の見学となった。
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 明治36(1903)年、高市郡教育博物館として建設され、昭和4年から今井町役場として使用された。現在は、今井まちなみ交流センターとなり、展示コーナー、映像シアターなどがある。

 ここで、今井町の歴史について、DVDを視聴して学習してから、地図を片手に寺内町巡りに出かける。

 【今井町の歴史】 

 今井町の成立は、戦国の世、天文年間(1532~1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって、寺内町が建設されたことによる。

 一向宗の門徒が、都市計画に基づき、今井に称念寺を建て、盗賊や大名などの攻撃に備えて、武力を養い、周辺に濠と土居を巡らせた。

 永禄11(1568)年、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると、本願寺は反信長の旗を立て、今井もそれに呼応し、抵抗したが、本願寺の降伏に伴い、天正3(1575)年、明智光秀を通じて信長に降伏し、武装放棄する。信長から赦免の朱印状が下され、「万事大坂同前」として、自治特権を許された。

 その後、商工業都市として発展し、俗に「今井千軒」、「海の堺、陸の今井」と呼ばれるほどになり、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、今井札(銀札)を発行するまでに栄えた。

 【今井町の町並み】

 今井町は、東西約600m、南北約310m、面積にして17,4㏊の地区内には、全建物数約1、500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区である。江戸時代のそのままのたたずまいと情緒を残していて、時代劇の撮影などにも使われる。

 平成5年、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件ある。
 《守られてきた伝統を今に伝えるー奇跡の町 今井町》
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 高木家住宅(重要文化財・昭和47年指定)
 
 19世紀初頭ごろ、酒造業等を営んだ。二階建てで、一階二階とも2列6室型の部屋。正面通りの格子の精彩さ等は、幕末期の上層町家の好例。
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 当時、使われていた「かまど」
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 見通しがきかないように、筋違いになっている
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 旧上田家住宅(非公開)奈良県指定文化財
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 旧は上田家で、「壺八」の屋号で肥料・精米を商った。母屋は文化2(1805)年の再建。
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 汚水排水溝のふたは、瓦のデザイン 
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 音村家住宅(重要文化財・昭和47年指定)
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 「細九」の屋号で金物問屋を営む。17世紀後半ごろに母屋を建てた。
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 旧米谷家住宅(重要文化財・昭和47年指定)
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 「米忠」の屋号で広く金物商を営む。18世紀中頃の建物で、のちに内蔵や蔵前座敷を増築した。
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 とても珍しい蔵前座敷(奥にある土蔵の前に隠居部屋が造られていた)
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 富田林の寺内町でも見かけた、馬を繋ぐ金具が残っている
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 火事になっても延焼しないように、分厚く塗りこめられた壁
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 称念寺(浄土真宗)
 本堂は、江戸時代初期に再建された大規模な建造物。現在、改修工事中。
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 豊田家住宅(重要文化財・昭和47年指定)
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 旧は材木商「西の木屋」牧村家の所有で、幕末には大名貸しを行い、藩の蔵元等を務めていた豪商。建物は寛文2(1662)年に建設されたもので、今西家住宅と並び、今井町における上層町家の好例。

 建物の壁の右上に「木」をデザイン化した文字がレリーフとなっている。
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 今西家住宅(重要文化財・昭和32年指定)を通りから眺める
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 今西家の前には今も水をたたえた濠がある。
 今西家は今井町で3名いた惣年寄の筆頭を務めていた家。慶安3(1650)年に再建された民家だが、城郭のような構造で、別名「八つ棟造り」と呼ばれている豪壮な建物。
 武士の身分を許されたとき、今井の郷の西端に家があるということから「今西」という姓をいただいたのだという。
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 今西家の座敷は、いくつもの段の向こうにある
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 裁判も行われた広い土間(お白砂)向こう側の2階には、悪事を白状しない者を閉じ込めて、煙でいぶしたという部屋が2つ並ぶ。ハシゴで上がるようになっている。昭和初期まで土間の横に牢屋もあったという。
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 大きな建物を支える3本の梁は巨大だ

 (※建物の説明は、橿原市観光政策課が作成した「なら かしはら 今井町」のリーフレットより引用させていただいた)





 

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# by rockyj | 2017-10-19 11:18 | Comments(0)  

このドキュメント、優れている!

  『発見!ナチス略奪絵画』 
 2017.10.10

   NHKのドキュメント番組に「アナザー・ストーリー」というのがある。

 女優が進行役となって、いくつかのパートで物語を展開していくスタイルの番組だ。

 第二次世界大戦時のナチスによるユダヤ人迫害の一つに、ユダヤ人が所有していた財産を不当に略奪したことがあげられる。この番組で取り上げたものは、ユダヤ人から略奪した名画を追跡したものだ。

 なかなか優れた内容で、見終えた後、感動を覚えた。

 見逃した方のために、ごく簡単にストーリーを紹介したい。

 2013年、ミュンヘンのマンションの一室に税務担当者たちが捜索に入ったところ、室内から大量の絵画を発見した。この情報をドイツの週刊誌「FOCUS」の記者が聞き込み、調査を始めた。

 手掛かりは、所有者がかつてナチスの画商として有名だった「グルリット」の子どもだということだった。50年前の住民登録から母親の名前を見つけ、その住所を訪ねていくと、あるマンションの6階の角部屋にグルリットの名前があった。ここに子どもが住んでいる。

 2013年11月4日、週刊誌「FOCUS」にスクープ記事が掲載された。それまでこの出来事を公にしていなかった当局も、すぐに記者会見を開き、公表することとなる。

 マンションには1200点もの絵画が保管されていて、その時価総額は1300億円以上だった。絵画の大半は、ナチスがユダヤ人たちから略奪したものと考えられている。

 NY在住のユダヤ人のトーレンは、戦時中にドイツからアメリカに亡命してきた。
 彼の父親は、弁護士だったが、ゲシュタポに連行され、一度、帰宅を許されたとき、富豪の大叔父のところで、広大な土地をナチスに安くで売るように強制された。トーレンはその交渉の隣の部屋で父親を待っていたが、その部屋に掛けてあったのが「砂浜での乗馬」という名画だった。作者はMax Liebermannで1901年の作品。

 トーレンの父は、息子を助けるためにユダヤ人の団体に委ねて、アメリカに亡命させた。両親は強制収容所に送られて、殺された。ところで、番組では、トーレン一家の写真が出る。そこには姉も写っているのだが、この姉がどうなったのかについては触れられていない。

 トーレンはアメリカで裸一貫から弁護士として成功する。そして、今回の事件の絵画の中に、「砂浜での乗馬」が含まれていることを知る。

 彼は絵画の返還を求めて、アメリカの裁判所にドイツ政府を訴える。

 「かつて奪われたものを私たちが取り戻す」とトーレンの息子は語り,トーレンは「取り戻したい。これは正義のためだ」と話す。

 トーレンが名画の返還を求めてドイツ政府を訴えた裁判について、ドイツの新聞が大きく取り上げて、報道する。

 結局、ドイツ政府はトーレン一家にこの名画を返還することに同意した。

 「FOCUS」のスクープ記事が出てから6ヶ月後、画商の息子、コルネリウス・グルリットはマンションで高齢のために死亡した。彼は「全財産をスイスの美術館に寄贈したい」と遺書を残していた。現在、スイスのベルン美術館で、これらの絵画の修復作業が行われているという。この秋には、ドイツの国立美術館で、略奪された絵画を展示して、持ち主に返すという。

 現在、元の所有者に返還された絵画は、4点のみだという。担当者は、「時間をかけて、返したい」と語る。

戦時中にナチスドイツが占領した国々から略奪した絵画は、60万点に及ぶという。その中で,10万点が行方不明だという。

  《黄金のアデーレ》

 番組の中で、名画の返還を求めたものとして『黄金のアデーレ 名画の帰還』(2015年公開)という映画の題名がちらっと紹介されている。

 この映画は、オーストリア政府の所有で、ウイーンのベルベデーレ美術館に飾られていたグスタフ・クリムトの名画「黄金のアデーレ」をアメリカ在住の女性マリア・アルトマンがオーストリア政府に名画の返還を裁判で求めて戦った実話だ。

 この名画は、世界で最も高価な絵画だと評されているそうだが、マリアの伯母が肖像画のモデルだったのだという。

 同じように名画の返還を求めた裁判であるので、この映画を見てみたい。レンタル店にあるかどうか調べてみる。



 

 
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# by rockyj | 2017-10-14 17:07 | Comments(0)  

金剛登山

  もみじ谷を下っていく  
 2017.9.26(火)晴

   今回もひと月ぶりの金剛登山だ。
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 9:05 登りは河南町の青崩(あおげ)道を行く。先月の登山もそうだったが、このルートを下りに使うことが多いのだが、久しぶりに登ることにした。旧309号線の道路の右手にトイレがある。
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 20分ほど急な階段の道を登っていく
 登りきったところにあるベンチで一休みする
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 山頂広場の下まで登ってくると、トリカブトの青い花が咲いている
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 10:50 山頂広場に着く
 よく晴れていて、気持ちがいい
 隣のベンチに座っていた男性は、途中のセトの休憩ポイントで話をした方だった
 門真市在住の方で、午前7時に出発し、近畿道を走ってきたという
 まだ働いていて、大峯の奥駆道(おくがけみち)を何回かに分けて登っているという
 帰りはダイトレルートで下山するというので、葛木神社の先まで同行して、別れた

 《もみじ谷のコースで下山する》 
たまたまだが、もみじ谷から登ってきたグループの一行とすれ違った。本当は違うルートで下山するつもりだったが、もみじ谷を久しぶりに下ってみようと、コース変更となった。

 もみじ谷のコースは、5年ほど前に女性たちと登ったのだが、その時は道案内した方がルートを間違えてしまい、険しい谷を登るなど、大変な思いをしたことがあった。それ以来、このもみじ谷を歩いたことはなかった。

 11:30 今回、葛木神社の後ろから、急な下り坂を一気に谷へ降りていくと、赤いマーキングがあった。
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 11:45 下から谷を登ってきたときは、左の斜面に取りつくようになっている
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 11:49 もみじ谷旧本流との分岐点
 旧本流は左手だが、右手の本流を登っていくのが正しいルートとなる。前回はここで道を間違えてしまって、旧本流を登っていってしまった。
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 わかりやすい表示がつけてある。流れに沿って、下っていく。
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 第6えん堤
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 小さな滝がある
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 もみじ谷 ふた俣(また)
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 第5えん堤
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 えん堤の左側から降りるようになっているが、危ない地点だ。
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 黄色の花
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 もみじ谷は、沢の水が流れているこのようなところを何回も沢を横ぎりながら、下っていく。絶えず水音を聞きながら歩いていきます!

 梅雨の時や、大雨が降った後などは、水量が多く、危険なので歩くことはやめるべきです。
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 こちらは野菊
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 第3えん堤
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 第1えん堤
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 12:35 沢沿いに下っていくと、もみじ谷の入口に着く。
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 標柱にもみじ谷と書いてくれている。5年ほど前には、この表示はなかったように思う。
 前には林道がカーブしている。

 ここから少し林道を下っていくと、右手にダイトレコースの入口となる橋が見えてくる。

 金剛の水が湧き出している休憩ポイントでザックを下ろして、冷たい水を飲んだ。

 ここから青崩道の入口までは林道を20分歩き、次に旧309号のアスファルト舗装道路を15分ほど歩いて下っていく。

 路傍に咲いている花々を撮影する
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 彼岸花
13:45 青崩道の入口に帰り着く。

 もみじ谷のコースを確認できたので、11月ごろに下から谷を登っていきたい!!

 富田林市に向けて車を走らせると、途中の河南町に大きなスーパー「オオクワ」ができている。地元の人々にとっては、日常の買い物がとても便利になったことだろう。この辺りに彼岸花が咲いていたので、スーパーの駐車場に車を入れて、しばらく撮影のために歩き回る。あと4,5日早ければきれいな色彩だったと思われた。
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 13:15 稲も黄金色に輝き、刈り取られるのも間近だ
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 14:00 バス道路沿いにある田のあぜに咲く彼岸花
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 今回はもみじ谷を歩くことができたし、彼岸花の撮影もでき、とても有意義な山旅となった。 



 
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# by rockyj | 2017-09-28 10:20 | Comments(1)  

テレビからの情報

  百歳以上の方々の食生活に学ぶ 
 2017.9.23

   今日は「秋分の日」なので、国旗を玄関前の門扉に掲揚した。因みに敬老の日は、以前は9月15日と決まっていたのだが、現在は第三月曜日となり、三連休を構成している。

 数日前の夜にテレビ(4ch)を見ていたら、百歳以上のご老人百名に対する食生活のアンケート調査を発表していた。なかなか面白い内容だったので、一部を紹介する。

 

 ◎週に3日以上食べているものは何か
 


 ①豚肉
 スタジオの回答者は、ほとんどが「牛肉」と答えていたが、私はこれは「豚肉」だと直感した。
 豚肉にはビタミンBが多く含まれているという。

 ②豆腐

 ③鶏肉

 ④サケ
 サケにはアスタキサンチンという老化防止の成分が含まれているという

 ⑤キャベツ
 これにもファイトケミカルという老化防止の成分が含まれている。スープやみそ汁に入れると、この成分を吸収できるという

 ⑥納豆
 
 ⑦ヨーグルト

 ⑧リンゴ

 ⑨サバ

 ⑩梅干し

 野菜ではキャベツがよく食べられている。生で食べるのもいいが、やはり熱を通した方が老化防止の成分が吸収できるというから、私の場合、豚肉とともにラーメンに入れて食べることが多い。

 朝食がご飯の時には、豆腐の味噌汁と必ず納豆を食べている。ヨーグルトも以前は全く食べることはなかったのだが、この頃はイチゴジャムを入れて、甘くして食べ始めている。

 リンゴは果物の中で大好物だ。今朝も半分、いただいた。

 こうしてみてくると、私の食生活の習慣も悪くはないように思う。
 ◎食事を一日に三回食べているか  

 ・三食食べている  98名

 これらのご老人方は、1916年以前の生まれであるから、きちんと三食を食べる習慣が子供時代からできていたということだ。

 

 ◎いつも飲んでいるものは何か
  


 ①温かい緑茶

 ②牛乳

 ③水

 ④コーヒー

 ⑤乳酸飲料(ヤクルトなど)

 飲み物の好みは、生育環境や時代、年齢によっても異なると思われる。私の場合、コーヒーを美味しいと思って飲み出したのは、大学生ぐらいではなかっただろうか。そうはいっても貧乏学生だったから、喫茶店で飲むという贅沢なことはしなかったのだが。もっぱら家にあるインスタントコーヒーだった。

 酒の味を覚えたのも大学の時だ。焼酎、ウイスキーなどが中心だったが、友人の部屋で2,3人で飲んだウイスキーは美味しかった!

 ところで、このご老人方は、やはり「緑茶」を毎日、朝、昼、夜と飲む方が多いようだ。私の場合は、朝食はパンが多いので、飲み物はミルクを入れた紅茶かスープだ。そして、食後にはホットコーヒーになる。2回に一度はインスタントではあるけれど、ドリップ・コーヒーを入れて楽しんでいる。

 週に1,2回のご飯の時は、あとで熱いほうじ茶をいただくことにしている。

 健康維持のために食生活は大事である。この調査結果を参考にして、百歳とは言わないが、長生きを目指しましょうか!




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# by rockyj | 2017-09-23 11:09 | Comments(0)  

トランプ大統領

  ロケットマン 
 2017.9.21(木)

 20日、アメリカのトランプ大統領は、国連総会の一般討論演説に初めて登壇し、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮について、次のように述べて強く警告した。

 「アメリカには大いなる強さと忍耐がある。しかし、もし自国や同盟国を守らざるを得ないなら、北朝鮮を完全に破壊すること以外には選択肢がなくなる。

 ロケットマンは、自身と自らの体制にとって自殺行為に走っている。アメリカは準備万端だが、その必要がなくなることが望ましい」

 ロケットマンとは、いうまでもなく北朝鮮労働党委員長の金正恩(キムジョンウン)をやゆして呼んだものだ。トランプ大統領の本領発揮というところだ。

 「破壊」という言葉を聞いた国連総会の会場には、どよめきが起こったという。

 トランプ大統領は、この演説の中で北朝鮮の非人道的な行為を列挙する中で、

 「北朝鮮が自国のスパイに日本語を教えるために、13歳の愛らしい日本人少女を浜辺から拉致したことを我々は知っている」と述べて、横田めぐみさん(52)を念頭に、北朝鮮による日本人拉致事件を厳しく非難している。

 国連総会の一般討論演説で、北朝鮮による日本人の拉致事件が取り上げられたのは、これが初めてではないだろうか。

 安倍首相も、今回、演説の中で拉致事件を取り上げているが、世界中の首脳と外交官たちの前で北朝鮮による日本人の拉致事件が語られたことの意義は、きわめて大きいと私は考える。

 拉致被害者の家族会の方々が先月、ワシントンを訪れてホワイトハウスで担当者に面会し、「北朝鮮をテロ国家として再び指定してほしい」と要望を伝えたとき、担当者は「大統領は、日本人の拉致問題については、詳しく知っている」と述べていた。

 トランプ大統領が国連総会の場でこの問題を取り上げてくれたことに私は敬意を表したい。

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# by rockyj | 2017-09-21 11:06 | Comments(0)  

この映画が面白い

  DUNKIRK
  2017.9.13

  「ダンケルク」という戦争映画が9日から公開されているので、見てきた。昔から戦争映画は好きだ。男はだいたい、この手の映画は好きだと思うが、どうだろうか。

 この映画は、クリストファー・ノーラン監督が脚本を書き、製作した。「ダークナイト」などの作品を監督したらしいが、私は見ていない。ノーラン監督自身、実話に基づく戦争映画を撮るのは初めてだという。

 英・オランダ・仏・米の合作映画で、配給はアメリカだ。

 《ダンケルクの戦い》 

 1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、勝利する。9月3日、フランスは英国とともにドイツに宣戦布告する。しばらく戦争は起こらないが、仏・英の連合軍はベルギーに進出し、仏・独の国境地帯にも要塞のマジノ線を挟んで、ドイツの攻撃に備えていた。

 翌1940年5月10日、ドイツはベルギー・オランダ・ルクセンブルグに侵攻を開始する。また、フランスの防衛力の薄かったアルデンヌの森を抜けて、戦車部隊がフランスに侵攻すると、フランスの防衛ラインは崩れてしまった。ドイツは航空機と戦車を使った機動力のある電撃作戦で、英・仏軍をドーバー海峡のダンケルクに包囲してしまう。

 チャーチル首相は、英仏軍を救出する「ダイナモ作戦」を発動し、5月26日から6月4日にかけて、海軍の艦艇だけでなく、民間の船も動員して、ドーバー海峡を越えて救出に向わせ、35万人を救出することに成功した。奇跡の救出といわれる。

 《映画の見どころ》

◎映画は3つの視点から描かれている。
 1、英軍の二等兵 トミー(フィオン・ホワイトヘッド)
 何とかして救助の船に乗り込もうとするが、うまくいかない。ようやく乗り込んだ駆逐艦も魚雷攻撃を受けて、沈んでしまい、民間の船長の船に救われるという状況だ。

 2、英・空軍のパイロット ファリア(トム・ハーディ)

 監督は第二次大戦の名機といわれたイギリスの「スピットファイア」3機を実際に飛ばせて、撮影した。復元したのだろうか、詳細はわからない。さらに戦闘機の後部座席に手持ちのIMAXカメラを入れて、コックピットから臨場感のある映像を撮影したという。このカメラによる映画は、一部の映画館でしか見られず、私の見た映画も、ごく普通のものだが、映画を楽しむにはこれで十分だと思う。

 3機のパイロットはドイツの戦闘機と戦い、1機は墜落し、もう1機はに海上に着水する。残る1機のパイロットのファリアは、救出する艦艇を攻撃するドイツの爆撃機に対して戦い、これを撃ち落とすことに成功するが、自分の戦闘機も燃料が無くなった。ダンケルクの浜辺に不時着し、戦闘機を炎上させてからドイツ軍の捕虜となる。

 3、遊覧船の船長 ドーソン(マーク・ライランス)
 船長役を好演したマーク・ライランスは、「ブリッジ・オブ・スパイ」という映画で、アカデミー助演男優賞を受賞しているという。

 船長は海上に着水したイギリスの戦闘機のパイロットの救出に向かう。パイロットは、着水と同時に脱出しようとするが、風防が開かず、手でたたいたり、物でたたいたりするが、どうにもならない。そうこうするうちに海水が顔の近くまで迫ってくる。間一発で、風防が外から叩きこわされる。

 映画はこの3つの視点から、交互にストーリーが展開していくので、テンポが早い。

 最近の映画は、CG(コンピューター・グラフィック)全盛であるが、監督は実写にこだわり、戦艦も実際のものを使って撮影しているという。

 この映画の特徴は、ドイツ軍の兵士が一人として描かれていないことだ。冒頭のシーンで、主人公の二等兵たちがダンケルクの町を港に向かって歩いていく。突如、背後から銃撃されて、次々と仲間たちが倒れていくが、主人公のトミーは辛うじて助かる。ドイツ兵の姿は見えず、銃撃の音だけが響く。

 空中戦のシーンも、イギリス空軍のパイロットは描かれるが、ドイツのメッサーシュミットは機影だけだ。

 ダンケルクの海岸近くには、ドイツの機甲師団も展開していただろうに、戦車の1台も登場しない。包囲されているという緊迫感を出すためには、ドイツ軍の指揮官や軍隊を登場させてもよかったように思う。
 《ドイツ軍の作戦ミスで、ダンケルクの奇跡は起こった》

 ドイツ軍が電撃的な侵攻作戦で、英仏連合軍を分断し、40万といわれる連合軍をダンケルクに追いつめていたのに、なぜ、大規模な撤退作戦は成功したのか。

 ①ヒトラーは酷使した機甲部隊の温存をはかり、進撃を中止させたこと
 ②ゲーリングが空軍の力で、包囲された英仏軍を壊滅できると進言したこと

 しかし、ドイツ空軍は、イギリス空軍の反撃を受けて、効果的な攻撃ができなかったようだ。また、海岸の砂浜が爆弾の衝撃を弱めたことも大きかったという。

 ドイツ側の将軍たちも、独軍最高司令部がダンケルクでの攻撃命令を出す時機を逃したため、撤退を許してしまったことを認めているという。

 撤退作戦で救出された兵員は以下の通り。
  英軍 192,000名
  仏軍 139,000名
  合計 331,000名

 カレーで包囲されていた英軍部隊は、ドイツ軍を引きつけるために救出されず、捕虜となっている。
  捕虜  30,000名

 救出を待つ兵士たちは、銃を手にしていない。このほか、戦車、火砲などの重火器、トラックなどの多くの車両を海岸に放棄して撤退したため、イギリスは後に米国から武器の支援を受けることとなった。 

 《終わりに》


 救助の船に乗ろうとして、浜辺に集結している英・仏兵をドイツの戦闘機が急降下して襲撃する場面が描かれる。次々に爆弾が落とされ、兵士たちが浜辺に伏せる。やがて、戦闘機が飛び去ると、兵士たちは立ち上がるけれど、あちこちに倒れたままの兵士がいる。こういう状況の中で、救出作戦が進められていく。



 
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# by rockyj | 2017-09-15 10:05 | Comments(0)  

青春18きっぷの旅

  近江商人屋敷を巡る 
 2017. 9.1(金)快晴

 大阪狭山市の熟年いきいき事業実行委員会が主催する「青春18きっぷ日帰りの旅」の募集を市の広報紙で知り、先着順ということだったので、すぐにはがきを投函した。

 幸いに40名の枠に入り、8月21日までに参加費用5,370円を直接、事務所に行き、支払った。内訳は3,000円(3回分)と2,370円(青春18きっぷ1回分)だ。

  《近江商人屋敷などの見学》 

 (行程)
(往路)
 金剛駅 8:29 発(各停)~8:51着
 JR三国ヶ丘駅 9:17 発(関空快速)~9:45着
 大阪駅 10:00 発(長浜行き新快速)~能登川駅 11:09 着
 近江鉄道バス 11:45 発~金堂バス停 11:55 着

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 滋賀県東近江市の五個荘金堂地区

 国の重要伝統的建造物群保存地区に平成10年12月25日に選定された
(選定の理由)
「金堂の町並みは古代条里制地割を基礎に、大和郡山藩の陣屋と社寺を中心に形成された湖東平野を代表する農村集落で、加えて近江商人が築いた意匠の優れた和風建築群の歴史的景観を保存し、わが国として価値が高い」
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 近江商人博物館
 一階にあるレストラン「紫陽花」で昼食をとる
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 大城神社の祭りは、近江商人の旅姿で4月の第2日曜日に開催される。
 9月15日に幕末の万延元年に建築された「万延楼」と称する曳山(ひきやま)が出る。
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金堂地区のメインストリート、祭・馬場通りは道幅が広くとってある
 馬の競走を行ったという
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 屋敷の前には、一間幅の水路が走る

 【外村繁(とのむらしげる)邸】

 本家の4代目外村宇兵衛の妹みわに婿養子の吉太郎を迎えて分家したのがはじまり。東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開き、活躍した。

 吉太郎の三男が私小説家として知られる外村繁(1902~1961)。繁は一時、家業を継ぎ商人となるが、文学を志し、弟に家業を託す。

 「草筏」「筏」「花筏(はないかだ)」など近江商人を題材にした小説や自らの人生を綴った数多くの作品を残した
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 土蔵は外村繁文学館となっていて、繁の生い立ちや小説の原稿などを展示している
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 「筏」三部作と「花筏」の原稿
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 庭には「むべ」の木が生えている
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 川戸(かわと)
 屋敷の入口には、水路の水を引き入れた川戸がどの家にもある
 石段が作られていて、ここで野菜などを洗っていたのだろう
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 屋敷に上がって、見学する
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 近江商人の像がある
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 【外村宇兵衛邸】 

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 初代外村宇兵衛(1777~1820)は、近江商人であった六代目外村与左衛門の末子。独立して呉服を扱う。東京・横浜・京都・福井などに支店を持ち、呉服類の販売を中心に商圏を広げ、明治期には全国の長者番付に名を連ね、近江を代表する豪商として地位を築いた。

 母屋は万延元年(1860)の建築。外村繁邸の本家にあたる。
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 蔵の2階には、天井から吊った収納の工夫がみられる
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 壁に造られた棚には、祝い事に用いた什器が並ぶ
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 庭に立つ近江商人の像
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 広い庭園には池が巡らしてあり、高い木の上では、業者が枝の剪定作業中だった
 【中江準五郎邸】

 昭和初期、朝鮮半島や中国で三中井(みなかい)百貨店を築いた中江家4兄弟の末の準五郎の本宅。1934(昭和9)年に三中井百貨店を創業し、約20の店舗を経営し、百貨店王と呼ばれる。

 蔵の中には、五個荘が生んだ郷土玩具の小幡人形や全国の土人形を展示している。
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 中江4兄弟の写真
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 在りし日の三中井百貨店
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 小幡人形
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 【弘誓寺(ぐぜいじ)】

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 弘誓寺の前の水路を泳ぐ緋鯉
 大きかった!
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 浄土真宗大谷派の寺院
 那須与一の孫、愚とつ坊(ぐとつぼう)の開基といわれ、正応3(1290)年に創建される。

 現在の本堂は、宝暦5(1753)年に再建されたもので、規模が大きく、大屋根は御坊格寺院の本堂に匹敵する大きさだ。国の重要文化財。
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 表門
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 瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っている
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 金堂地区の案内板
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 ぐぜい寺の大屋根がそびえていた

(復路)
 プラザ三方よしバス停 15:09 発~15:20着
 JR能登川駅 15:31 発~16:42 着
 大阪駅 16:56 発 関空快速~三国ヶ丘駅17:24着 (解散)

 初めて近江の五個荘金堂地区を訪れた。近江商人の三軒の屋敷を一般公開している。一行は現地ガイドの案内で、2つのグループに分かれて、見学して回った。ガイドもベテランのようで、詳しく案内してくれた。どっしりとした屋敷で、あちこちに工夫がしてあった。たとえばふすまのレールの部分は、すり減ると、そこだけ交換できるようになっている。商人の知恵といえよう。

 金堂地区は水路が設けられていて、弘誓寺の周辺には大きな鯉が泳いでいた。町の中に水路が巡らされている情景は、不思議と心が癒される。

 往復のJRの電車からは、早くも刈り取られた田や黄金色に色づいた稲を見ることができ、さすが近江は米どころだと実感した。

 あと2回行われる日帰り旅が楽しみだ!

 
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# by rockyj | 2017-09-06 11:14 | Comments(0)  

東京見物 Part.2

  ボストン美術館の至宝展 
 2017.8.9

  東京都美術館で7月20日から開催中の展覧会を見に行く。

 都美術館は国立西洋美術館なども集まっている上野公園にある。
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美術館に近づくと、手前にある球形の展示物が目を惹く
奥にある建物が都美術館で、階段を20段ほど下りたところに正面入口がある
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 都美術館の正面入口

 【ボストン美術館】

 アメリカ・マサチューセッツ州にあるボストン美術館は、財界、教育界、文化関係者の有志により1870年に設立、76年に開館した。

 国や州の財政援助を受けず、主に個人の寄贈や寄付によってコレクションの拡充を続けている。一級品が集まる背景には、洋の東西を問わず作品を見出し、私財を投じた人々の情熱があった。その視線は、新たな芸術の開拓にも向けられてきた。

 美術品は皆のものという哲学
  館長 マシュー・テイテル・バウム

 「古代エジプト美術から日本美術、フランス絵画や村上隆のような現代美術までを紹介する今回の展覧会は、出品作の幅の広さと質の高さにおいて、ボストン美術館の姿をよく表す、非常に素晴らしいものです。

 もう一つ、コレクターの貢献に着目している点にも大きな意味があります。米国では、公の機関に寄贈や寄付をするという寛容な姿勢が、美徳として広く認められています。多くの美術館が、地域社会のそうした美徳を反映しています。

 ボストン美術館のコレクションは、コレクターから寄贈された作品や、寄付金で作った基金で購入したもので成り立っています。美術館は皆さんに支えられた公的で、オープンな存在であるべきだと考えているからです。

 今回のように国外で展覧会を開くのも、誰に対しても開かれた存在になり、作品はシェアすべきだという哲学に基づいています。

 特に、質の高い日本美術コレクションを持っている我々にとって、日米両国のつながりを美術を通してお示しすることは重要です。

 実際に作品を見ていただくことで、新たな着想や、想像力と創造力が生まれるのではないでしょうか。

 例えば8歳の小学生が今回の展覧会を見て、次の村上隆になってくれればうれしい、と思っています。」(朝日新聞 記念号外 「ボストン美術館の至宝展」より)

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 今回の至宝展には、ボストン美術館からゴッホが描いたルーラン夫妻がそろって日本にやってきた。

  《ゴッホの郵便配達人》 

 ゴッホはオランダのポスト印象派の画家。

 主な作品の多くは、1886年以降のフランス居住時代に制作された。特にアルル時代(1888年~1889年5月)とサン・レミ精神病院での療養時代(1889年5月~1890年5月)である。

 ゴッホの絵画は、感情の率直な表現と、大胆な色使いで知られる。

 アルルに住み着いたゴッホは、近所に暮らしていたジョゼフ・ルーラン一家と親しくなり、ルーラン夫妻をモデルにして、複数のポートレイトを描いた。

 主人の肖像画は「郵便配達人」という名前で有名だが、実際にはルーランは駅の郵便物取扱係だったという。
 夫人の肖像画は「ルーラン夫人 ゆりかごを揺らす女」と題されている。

 ゴッホは妹のヴィルに宛てた手紙の中で、ルーランについて

 「頭部はソクラテスに似て、鼻はほとんどあるかなしか(中略)、たっぷりとしたごま塩のひげ、大きな耳を持っている。この男は強烈な共和主義者にして、社会主義者で、議論もうまい」と評している。

 ゴッホは、はじめ聖職者を目指すが、途中で挫折する。その後、画家の道に入るが、常に貧しい生活で、弟の援助を受けて暮らしていた。生涯に売れた絵は「赤い葡萄畑」の1点だけだったという。死後、次第に評価が高まってきた。

 《ボストン美術館の日本美術》



 同館の日本美術コレクションは約10万点におよび、海外にあるものとしては、世界有数の規模を誇る。

 お雇い外国人教師として来日、美術史家的な審美眼で日本美術を集めたアーネスト・フェノロサ(1853~1908)、彼と同様、日本中を旅し、同館史上、最も多くの作品を寄贈した資産家ウイリアム・ビゲロー(1850~1926)ら、ボストンゆかりの人物の探求心によるところが大きい。

 英(はなぶさ)一蝶の「涅槃図」(ねはんず)は、フェノロサが収集。後にボストン出身の富豪だった友人が彼から買い取り、自身の死後、同館に渡るようにした。

 およそ、縦2,9m、横1,7mの大きさゆえにほとんど展示されなかった大作が、約170年ぶりに本格的な修理を経て初の里帰りを果たすことになった。(朝日新聞 特別号外より)

 《私の心に残った作品を挙げてみる》


 ◎「郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン」(ゴッホ)1888年

 ◎「九龍図巻」(陳容)1244年
  南宋の文人画家・陳容〈ちんよう)による墨絵の大作は、長さ10m近い画面に9匹の龍が豪快に舞う名品。

 かつて清の乾隆帝にも愛蔵されていたが、海外に流出。1917年、東洋美術愛好家による基金で、同館に収蔵された。

 ◎「睡蓮(すいれん)」 クロード・モネ 1905年

 ◎「風仙図屏風」 曾我蕭白(そがしょうはく)1764年

 こう竜と呼ばれる怪物を道士が退治しようとしているところを描いたもの



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# by rockyj | 2017-08-30 11:42 | Comments(0)  

東京見物

  すみだ北斎美術館 
 2017.8.5

  ジパング倶楽部の3割引きの特典を使って、「ひかり」号で上京する。「のぞみ」号に乗れないのが難点であるが、時間は30分しか違わないから、年金生活の身分では、これで十分です。

 今回は墨田区にある北斎美術館を訪ねていく計画なので、10時少し過ぎに東京に着くように早起きをして準備した。

 東京駅からJRの乗車券をそのまま使って、総武線に乗り換えて両国駅に行く。両国といえば、国技館があるところだ。
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 11:45 両国駅構内にある展示
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 観光案内所や飲食店が入る両国の施設をのぞいてみる
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 ここには、実物大の土俵もこしらえてある
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 昼食にいただいた天ぷら定食
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 とてつもなく巨大な江戸東京博物館の横を通っていく
 帰りにここに寄って大河ドラマ「直虎」の特別展を見るつもりだったが、北斎の浮世絵に圧倒されて、ここには立ち寄らなかった。

 【すみだ北斎美術館】 
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 2016(平成28)年11月22日にオープンしたばかりの、葛飾北斎の作品だけを展示する美術館。
 とてもモダンな建物で、世界的な建築家の妹島和世氏の設計というが、残念ながらこの人の名前は知らなかった。
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 反対側から眺めてみる

 葛飾北斎(1760~1849)は、すみだの本所割下水(現在の墨田区亀沢付近)で生まれたといわれており、90年の生涯のほとんどを墨田区内で過ごしながら、浮世絵など多くの作品を残した。90回以上の引っ越しをしたそうだ。

 「葛飾」という姓は、彼の出生地である「すみだ」を含む地域が、武蔵国葛飾郡であったことから名乗ったといわれる。

 ピーター・モースコレクション(600点)、楢崎宗重コレクション(480点)を収蔵する。

 【冨嶽三十六景】 

 葛飾北斎の作品中で、最もよく知られている作品群。赤富士、浪裏と通称される「凱風快晴」と「神奈川沖浪裏」は、さまざまな印刷物やグッズにも使用され、世界中の人々が一度は目にしたことがある作品といっても過言ではない。

 特別展で公開されている作品のなかで、撮影が許されている浮世絵を撮影した。

 富嶽三十六景は、錦絵(にしきえ)という多色摺木版画で作られている。このため、色合いや摺りの異なるものが存在する。

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 凱風快晴(赤富士)
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 神奈川沖浪裏(浪裏)
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 山下白雨
 すみだ北斎美術館のロゴマークは,「山下白雨」の右手隅に描かれているカミナリからデザインされている。
 
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 尾州不二見原(ふじみがはら)
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 甲州石班沢(かじかざわ)

 《北斎という人》

 北斎が75歳の時に出版された絵手本「富嶽百景」初編の最後にある跋文(ばつぶん)に、次のように書いているという。

 「70歳以前までに描いた絵は、取るに足りないもので、73歳にしてようやく動植物の骨格や出生を悟ることができた」

 「80歳ではさらに成長し、90歳で絵の奥意を極め、百歳で神妙の域に到達し、百何十歳になれば一点一画が生きているようになるだろう」


 展示を見終わってから、1階の部屋で学芸員の解説を聴かせていただく。パワーポイントを使いながら、分かりやすい説明だった。勉強になりました。

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# by rockyj | 2017-08-27 12:22 | Comments(0)  

孫たちと旅する Part.2

  黒部峡谷鉄道の旅 
 2017. 8.7

 一夜明けると、昨夜の雷雨は夢のようで、快晴に恵まれた。

 朝食後、散歩に出かける。
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 栂池温泉郷の案内図
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 宿舎の裏手には、リフトがあり、スキー場が広がっている
 冬にはリフトで上がっていき、ここへ滑ってくるのだろう

 宇奈月温泉へバスで向かい、ここで自由昼食となる
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 山かけそばはとろろがかかっていて、美味しかった
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 蕎麦屋に飾ってあった民芸品がかわいい
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 12:45 富山地方鉄道の電車が宇奈月温泉駅に入ってくる
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 駅前にある温泉の噴水

 【黒部峡谷鉄道(トロッコ電車)の歴史】

 
 大正12(1923)年、日本電力株式会社により、発電所を建設する資材や作業員の輸送を目的に敷設工事が始まる。昭和12(1937)年に終点の欅平(けやきだいら)までの20,1kmが開通する。

 当時は工事専用鉄道として運行していたが、秘境の黒部渓谷の探勝を希望する観光客が絶えないため、「便乗の安全については、一切保証致しません」と書かれた便乗証を発行し、トロッコに便乗させていた。

 昭和26(1951)年に関西電力株式会社が「黒部専用鉄道」を引き継ぎ、昭和28(1953)年より観光客のための旅客営業運転を始めた。

 昭和46(1971)年に関西電力から分離し、黒部峡谷鉄道株式会社が発足する。
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 黒部峡谷鉄道の始発駅は宇奈月駅
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13:11発の「けやき平」行きに乗車する
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 トロッコ電車を牽引する機関車
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 台湾の鉄道会社と提携している
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 黒部川第二発電所
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 出し平ダムは、国内で初めて排砂機能を備えている
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 14:14 ツアー一行の下車する鐘釣駅に到着した
 ここからはおよそ1時間の自由行動となる。河原に温泉が湧き出しているというので、そこへ向かう。15分ほど歩き、急な坂を下っていくと河原が見えてきた
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 鐘釣河原の露天風呂
 子どもたちが足湯などを楽しんでいる
 なかには水着を着て、河原に座り込んでいる子どもの姿も。
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 集合時間が迫ってきたので、鐘釣駅へ引き返していく

 帰りのトロッコ電車では、河原が見える窓側に座って、写真や動画の撮影を楽しんだ
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 対向する電車とすれ違う
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 サルが行き来できるように黒部川に架けられた専用の橋が中央右寄りに見える
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 新柳河原発電所
 宇奈月ダム建設により水没した柳河原発電所の替わりに造られた
 湖上に浮かぶ城をイメージして建設されている
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 新柳河原発電所の全景
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 宇奈月駅近くにある新山彦橋

 この後、バスで北陸新幹線の佐久平駅へと向かって走る。
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 車内で予約注文していたおぎのや名物の「峠の釜めし」をいただく。本来は陶器製の釜に入っているのだが、旅の途中なので、プラスチック製の容器を選んだ。

 20:56溌 佐久平駅(北陸新幹線「はくたか576号」
 22:12着 東京駅
  大手前駅より地下鉄の東西線で最寄り駅へ。

 23:25帰宅 孫二人は居眠りもせず、我が家までがんばりました。これは偉かったね‼‼

 二日間の孫たちとの旅は、幸いに天候にも恵まれて、いい旅となりました。小学5年と3年なので、今回の旅はきっと心に残るものとなったことと思います。

 台風が奄美大島付近で停滞してくれたので、天候に恵まれたものです。台風に感謝、感謝‼‼
 

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# by rockyj | 2017-08-22 10:13 | Comments(2)